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※以前やっていたサイトに掲載していた書き足し小説です。

放置はあまりにももったいなかったのでここに持ってきました。

現在は更新を停止しておりますが、存在自体がもったいないので、

いずれ復活することでしょう。

 

 

 

 

 

 

 灰色に彩る空の下。サビのニオイを漂わせる雨の中。
 ところどころ岩肌が剥き出しなった原野は戦場と化し、そのステージ上では数百もの兵たちが入り乱れ、各々に殺し合いを興じていた。
 「危ないッ!」
 突如、青年の視界を赤い血しぶきが覆い隠した。
 一瞬のことだった。青年は目の前にいた自分と同じ歳の女性の首が一瞬にして剣身もろとも飛ぶところを見た。
 「・・・ッ!!」
 言葉にならなかった自分の叫びによって我に返る。今、目の前で、最大の戦友にして最愛の人が殺されたのだ。
 首を失った身体がまるで糸が切れた人形のように倒れていった。
 女性によって塞がれていた敵の姿が目に飛び込んでくる。視界の外、上段から振り下ろされてくる黒いカタマリ。青年は条件反射の如き様で、その瞳に動揺を写したまま、そのカタマリを自らの戦斧で受けた。
 斬撃が重い。黒いフードに髑髏の面をした、まるで死神の化身ような男の放った一撃は、あまりにも重く、おもわず青年は膝を突いた。しかし、命を狙われているにも関わらず青年はその瞳は未だ首を失った女性を見たまま、殺気の主を見ようともしない。
 ―――クソッ、オレが油断したばかりに。
 視線の先は変わらないままだが、フードの男の一撃は青年のぼんやりとした頭を覚ますには十分だった。沸々と後から後から湧き上がるマグマが彼の身体中を循環し始める。徐々に視線は首のない女の死体からフードの男へとゆっくりと、眉間に殺意を込め、睨みつける。
 斬撃を受けた青年は、戦斧を横に返し、垂直にフードの男めがけ斧を薙ぐ。横に返した途端にフードの男は剣に込めていた力を緩め、ひらりと後ろに大きく飛び退って斧をかわす。
 青年はそのまま斧を振りかぶり、猛烈な勢いで斬りかかった。フードの男が地面に足が着く瞬間を狙った。鉄の具足の乾いた音が鳴るより前にフードの男の横腹へと斬撃が叩き込まれていくはずだった。
 フードの男が身に纏ったマントが引き裂かれていく、が。
 「中身が・・・ない!?」
 ボロボロになったマントの内から現れたものは、闇であった。フードの男の有るべきはずの肉体は見当たらない。代わりに闇が敷きつめられていた。
 ドスッ。
 呆気に取られた瞬間、青年の胸から剣の塚が生えていた。
 死神が放った剣は凄まじい力によって、剣身のほとんどが完全に青年の胸に埋まっていた。
 内臓が破裂し、爆発するかのように青年は大量の血を吐き出した。
 地面に叩きつけられるようにうつ伏せに倒れる。剣の付け根からゆっくりと確実に地面へと血が流れ逃げていく。胸の中もまた血で満たされていき、呼吸が苦しくなっていく。
 ―――終わりか。
 霞む視界の中、死神の具足の向こうに恋人の姿を見つけた。こちらに背中を向けたかたちで倒れている。尻尾は力なく垂れ下がり、背中から生えた白い翼が血を失いカサカサになっている様をぼんやり眺めていた。
 ヒュー・・・ヒュー・・・。
 息が上手く出来ない。血ですっかり気管が潤ってしまい、吸っても吐いても血の流れが一時的に変わるだけだ。血とともに見えない生気も身体から抜け出ていくような感覚を青年は感じた。
 「・・・やくそく・・・守れなかッ・・・たな・・・・。」
 掠れるような声を出した途端、青年は、視界から光を失った。

 

 


 「女王さま! 今、お生まれになられました!」
 ドタドタと慌しく侍女が部屋に入ってきたのを見て、オリシア王国女王であるイリアは嘆息した。なんと落ち着きのないこと。それにいつ言っても入る前のノックを忘れてしまう。
 「アナ、いつも言っているけどどうしてあなたは入る前に・・・まぁいいわ。それで、あなたに預けた子はどうしたの? 私が見に行かないといけないの?」
 アナと呼ばれた侍女は、口をアの字に開けてその場にピタッと立ち止まった。
 「も、申し訳ありません! 急に卵の殻が割れてお生まれになられたので、わたし気が動転してしまって、お伝えすることだけで頭がいっぱいになっていました!」
 イリアはますます頭が痛くなった。赤ん坊に急も何もない。子供が生まれただけでもこの動揺っぷりである。卵を産んだときなど、どうしたらいいのかわからずうろたえ、挙句の果てには、大量に流れた血を目の当たりにして卒倒してしまったほどである。
 「わかりました。わたしから部屋に向かいましょう」
 女王はそう言うと読んでいた本を机に置き、自分の身体を抱くように巻いていた自分の白い翼をひるがえし部屋を出て行った。
 そこで侍女はハッと我に返り、またもや慌しく部屋を出て女王のあとをついていく。

 生まれる前から赤ん坊にあてがわれた部屋に入ると赤ん坊は他の侍女によって産湯に浸かっている最中であった。
 女王の後ろにいたアナはしきりに両手の平を合わせて文句を言いたげに見ている同僚に、「ゴメン」と合図していた。
 「まったく。もっと落ち着きを持ちなさい。それでは今後この子を預けることもできないわ」
 産湯を終えた赤ん坊を受け取り、女王は侍女を叱った。
 「も、申し訳ありません・・・」
 侍女はすっかりしょげかえってしまっている。
 「しばらく、この子と二人でいたいから、あなたたちは下がっていなさい。しばらくしたら、また呼びますから」
 二人の侍女は頭を下げ、部屋を出て行った。ドア越しに少し強めの声調の会話が聞こえる。恐らく、置いてかれた方が文句でも言っているのだろう。あの侍女に仕事を頼むといつも嘆息が尽きない。あれで一応子育ての経験があるというのだが、少々信用し難いものだ。
 女王は抱いている自分の子に視線を移した。そういえば、性別はどっちなのか聞いてなかった。まったくあの子は・・・。
 丁寧に赤ん坊に巻かれたタオルを解いていく。
 「そう・・・女の子なのね・・・」
 タオルを外された背中には人間特有のつるっとした肌から爬虫類のような皮膚で出来た羽と尾が出てきていた。生まれたてであるはずの姫はゆっくりと瞳を開いていく。燃えるような赤い瞳。これはこの国の種族の特徴であり、人竜の証。人と竜が交わりし人々。そしてその瞳を明らかに、確実に、イリアを見つめた。まるで意思がはっきりしているかのように黙って静かに見つめている。
 「わかっているわね・・・あなたは罪を償うために生まれたのよ・・・」
 女王もそのことを承知しているようで、優しく頭を撫でながら静かに、そしてはっきりと姫に囁いた。女王の瞳もまた赤い瞳。しかし凍てつくように冷たい視線を我が子に送る。とても親が子供に対して見る視線ではない。
 「私の大切な娘を殺したのですものね・・・。あなたはその罪を償わなければならない」
 生まれたての姫はその言葉を、目を伏して聞いていた。まるで自分の罪を認めるかのように。
 「あなたに名前をあげるわ、エル。あの子の名前をあげる。あなたが自分の罪を忘れることのないようにね・・・」
 撫でていた手を止め、ベッドに娘を寝かせると女王は部屋を出て行った。
 侍女が部屋に入ってくる。先ほどとは違い落ち着いた静かな足音が部屋に響く。
 寝ているベッドに歩み寄ると、彼女はまだ起きていた。しっかりとこちらに視線を向ける赤ん坊を見て侍女は背筋が凍った。瞳には力が溢れている。まだ生まれて二時間も経っていないのにこの子にはすでに意思があり意識すらあるようだ。
 ―――なんなのこの子・・・。
 しばらくの間、じっと姫は侍女を見つめていたが興味を失ったのか、目を閉じて寝息を立て始めた。見つめられていた侍女は背筋に痛みを感じ、自分が見つめられて固まっていたことに気がついた。

 

 

 「姫様ー、姫様ー、どこですか!」
 城内で慌しく歩く足音と切羽詰まった声。
 「あら、アナ。また姫様を探しているの?」
 「ハァハァ、そうなのよ! ハァ、エル様ったら目を離すとすぐいなくなっちゃうのよ!」
 アナは手を膝について息を絶え絶えに背中の赤い翼を上下に揺らしながら同僚に言った。それでもやっぱり慌てた調子でバタバタとまくしたてた。顔が加熱した鉄のように真っ赤だ。
 「またお城の外に行ったんじゃないかしら?ほら、前にお城のすぐそばの湖のほとりでお昼寝しているのを見つけたって言ってたじゃない」
 「でも、あの時は朝からいなくなってたわ! もしかしたらそんなに遠くには行ってないかもしれない!」
 息を飲み込んで、
 「もう十六にもなるのにどうしてあんなに落ち着きがないのかしら。探すわたしの身にもなってほしいものだわ!」
 ―――落ち着きがないのはあんたのほうでしょ。
 白い目で見ながら同僚はそう思ったが、変なこと言うと面倒だし黙っておくことにした。
 ずっとまくしたてていたが、息がある程度落ち着いてきた。これ以上遅くなるとまたイリア様に怒られてしまう。
 「あたし、今度は内庭に行ってみる。見かけたら教えてね」
 「あ、うん・・・」
 またアナはドタドタと足早に歩き去っていった。
 ―――相変わらずパワフルな娘ね・・・。それをぽかーんと見ていた侍女は急に手をポンと叩いた。
 「そういえば、エルさまが兵の宿舎に行くところ見たっけ」
 しかし、アナはもう姿が見えなくなっていた。忙しくするだけあって動きはとても速い気がする。多分、追っかけたら自分も内庭に辿り着いてしまうだろう。
 「まぁ、いっか」
 そう言うと回れ右をして歩き始めた。あの娘のおかげで仕事を忘れちゃったわ・・・。
 アナに会う人間は大抵そんな状態になるものだ。


 姫様は宿舎の外にいた。
 アナが着いた時には宿舎の近くにある丘で昼寝をしていた。寝顔はそれはそれは気持ちよさそうに寝ている。 汗のニオイが仄かにする。どうやらいつもの運動をした後のようだ。
 アナは恨めしそうに少女を見つめ、溜息をついた。
 「姫様!」
 華奢な身体の割に出た大きな通る声で呼ばれ、エルと呼ばれた少女は瞬時にまぶたを開け、上半身を一気に起こした。
 「うわっ!? なんだ・・・アナかー。脅かすなよ」
 後ろを振り向くといかめしい表情で見ている侍女を赤い大きな瞳を見開いて見つめた。
 「エル様。また訓練所で打ち込みをしていたのですか?」
 エルの横に置かれている銀色に光るハルバードを見て眉をひそめて言った。
 「どうして、わたしに何も言わないで部屋を出るんですか?女王様から世話を承っているですから、見失ったらわたしが怒られるんですからね」
 「アナー、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。ほら、あんまり怒るともう三十超えちゃったんでしょ。顔に残っちゃうよ?」
 エルは苦笑しながら詰め寄る侍女を手を振りながら逃れようとする。
 「それになんですか? この格好は、わたしが着せて差し上げたドレスはどうしちゃったんですか?」
 「だって、ドレスを着たまんま打ち込みなんてできないよ。自分で脱いじゃった。今は宿舎に置いてあるよ」
 今のエルの姿は鎧を着ていないにしろ、上から下まで兵士の服だった。恐らく宿舎に置いてある予備のものを勝手に拝借したのだろう。サイズは男物しかないだけに上下ともにダボダボである。前髪はピンを一個で止め、後ろはもともと襟元までしか長さがないので小さくリボンで縛ってあるだけだ。一見だけではこれがオリシア王国の姫だと言われても信じる人間はいないだろう。しかし、傾国の美女と呼ばれる母親である女王イリアの血を受け継いでいるだけあり、まだまだ幼い顔つきなものの将来を期待させる端正な顔つきをしている。
 エルは立ち上がると前髪を止めていたピンを外し、リボンで縛っていた後ろ髪を解いた。ツヤのある黒い髪が流れ落ちる。エルの背中には人竜特有の羽がない。と、いうよりも存在はしているがとても未発達なもので背中にちょこんと可愛らしく存在するだけである。普通の人竜であれば十歳にもなれば立派な羽に成長するはずであるが、エルはすでに今年で十六歳になったにもかかわらず相も変わらず幼い翼のまま。国の権威ある医術者もこれには首をかしげるばかりである。
 しかし尻尾のほうはしっかり発達しており、王族特有の白いきめ細かい鱗の尻尾である。
 男のような言動と格好をしなければ、翼がないにしろ、それはそれは麗しい姫だろう、と城のものは誰もがそう嘆息混じりに言う。
 アナもやはりそう思う一人である。
 「姫様、イリア様がお呼びです。ああ・・・今回もこんなに遅れてしまって・・・。わたしはイリア様になんと申し上げればいいのでしょう」
 そう言うとアナはさも悲しそうにうつむいた。その時、エルの瞳が少し影が差した。
 「まぁまぁ、きっと怒られるのは僕のほうだよ。とりあえずもう一回ドレス着せてくれる?」
 そう言うと姫は侍女の肩をポンポンと軽く叩いて宿舎に入っていった。アナの苦悩に比べればエルは呑気なものだ。だが、アナはエルの笑顔を見て、空っぽの笑顔だと気がついた。


 「イリア様、エル様をお連れしました。」
 執務室のドアをノックし、そう告げると部屋の侍女がドアを開けた。さすがにあれから十六年も経っているので、事前にノックだけは改善されているようだ。
 「入りなさい」
 部屋の中から声がする。エルが部屋に入ると後ろにいたアナはお辞儀し、執務室から出て行った。
 声の主、女王イリアは書類と格闘している真っ最中だった。重厚で豪奢な机の上には面積いっぱいの書類。その一つを頬杖つきながら眺めながめていた女王は、娘が部屋に入ったことを目の端で確認すると視線だけを向けた。
 「遅かったわね。おかげで治水の件をこなすことができたわ」
 「申し訳ありません。母様」
 母の素っ気ない一言に、エルは言い訳をすることもなくただ一言謝罪した。
 「大方、どこかで打ち込みの真似事でもしていたのでしょう? わたしが何度言ってもやめようとしないのね」
 眺めていた書類にサインを入れ、一息つくと両手を伸ばし、視線だけではなく身体も娘の方へ向けた。
 ―――冷たい視線。エルは母親の視線が苦手だった。幼いころより、物心がつく前から母が自分を見る視線はとても冷たかった。そのせいで、エルはすっかり母親に対して恐れと悲しみを覚えるようになった。自分の罪をいつも絶えず訴え、責めつづけているのだ。エル自身もそれを自覚していて、母に対しては常に従ってきた。しかし、母は自分の自由意志による行動に対しては特に冷たかった。認められようとしているわけでもなかったが、自分自身を否定されているかのような扱いを感じていた。
 「申し訳ありません」
 「いつもそればかりね。言い訳もせず、ただ謝るだけ」
 女王は溜息を一つだけついた。
 「あなたがどういうつもりかは知らないけど、わたしの娘である限りはわたしの跡を継いでもらわなければならない。それがわたしへの、あなたの姉への罪を償うことなのだから」
 エルはうつむいていた。女王からはその表情が窺い知れない。
 「だから、あなたはわたしに従ってもらわないと困る。わたしが生きているうちに国を治める術を学んでもらわないとね」
 「わかっております・・・母様」
 一見、エルの行動は自由きままなようにも見えるが、実際は一日の大半は部屋に閉じ込められ、様々な学問を学ぶことを強いられている。それでも先ほどのように時には部屋を飛び出し、打ち込みや散歩などで気持ちを発散させようとするのだ。エル自身には性格上、学問は少々合わないのだ。
執務室からエルが出てくると外で待っていたアナが近寄る。うつむいたままのエルを見て、アナは心配そうに声をかける。エルは自分の顔を両手でぱしぱし叩いてアナを見た。
 「姫様、大丈夫ですか? またイリア様に何か言われたのですか?」
 「大丈夫だよ」
 笑顔で答えるが、その笑顔も少し力がない。アナはエルの母親対する感情は承知していた。アナもやはり女王の娘に対して視線や言動が冷たいことが気にかかっていた。元々、女王はとても冷静かつ冷徹な人で、現在、アドナとマドルオが戦争状態であるが、自国を守るために他国に対して一切干渉せず、難民すら受け入れることを禁じていた。しかし、それ以上に実の子である娘に対する態度は一線を超えるものがあり、虐待や暴言こそないものの、みな二人の関係が異常であることを認めている。また娘自身もやはり頑なに母親の言いつけを守っている部分もあり、親子というよりも主従関係に近いものを感じさせた。二人の間にまるで厚く重い石の壁が存在するかのようである。


 部屋に戻るやいなや、エルは自分の寝室に閉じこもった。
 「どうしたらいいんだよ・・・」
 ベッドにうつ伏せになって、そっと声にしてみる。
 言葉には魂がこもるというのを本で読んだことをエルはふと思い出した。
 エルが込めた言葉には行き場のない悲しみが込められていた。あの人は本当に自分を憎んでいる。それは十六年間生きた中で幾度も母親から感じていた。あの冷たいまなざしはいつも絶えることなく自分を刺し貫いている。罪悪感がひしひしと音を立ててエルの心を揺さぶる。もう限界だ、最近はそうも思い始めている。あの まなざしを見ているとエルはいても立ってもいられなくなる。
 ―――いつまで続くだろうか・・・。まるで拷問の日々のようだ。城は丸々エルのために用意された牢獄。罪状は・・・あの女王から娘を奪った罪だ。何故、自分が十六年もの間、責められているのか。何を彼女は責めているのか。エルは夢の中でも、無意識に沸き起こる罪悪感のなかでも自覚している。自分のなかに眠る記憶と共に。このまま、自分はあのまなざしを一生受けつづけなければならないのだろうか、そう思うと今にも城を飛び出したくなる衝動が湧き上がってくる。
 嫌な気分を外の空気を吸って紛らわそうと窓を開けた。少し上の辺りに月が見える。ベルベットの夜に乳白色の月が丸い姿をさらけ出していた。
 今日は満月。城内は静かだ。ベッドのなかでゴロゴロと考え事をしていたら、いつの間にか夜もかなり耽ってしまっていたようだ。
 明日も一日中部屋の中に閉じ込められてしまうのだろうか。毎日のことだが、想像するだけで背中の小さな羽がチリチリしてくる。
 ―――今日はもう寝よう。エルがベッドに潜り込んだ、その時だった。

 ガチン、ガチン、ガチン

 何か鎧の具足が鳴る音ように聞こえる。エルはすぐにベッドから出た。窓の横にある壁を凝視する。
 月の明かりによって影が出来た部分より全身を黒塗りつぶしたかのような出で立ちをした男が現れた。黒いフードを深く被り、端がボロボロになったマントを羽織り、黒銀の具足がマントの下から伸びている。暗い壁から出で月の前に出てきた。
 男と言ったが、実際は男か女かわからない。月を背にしているせいか、フードの奥の顔、表情などは読み取れない。体躯を見る限り男だろう。
 「おやおや・・・満月の力を借りて、懐かしい気配を辿ってみれば人違いだったか・・・?」
 黒いフードの男は重く低い声で囁くように言葉を吐いた。エルの心臓が大きくうねった。―――この声・・・!
 「しかし・・・この辺りだった気がする。気配は消えていない」
 誰に言うともない言葉を吐息と共に吐き出すと、マントを翻し部屋を見回す。すると鼻を嗅ぐ音がし始める。エルは身動きできずじっと男を見つめていた。立っているのがつらい。五臓六腑がうねり、収縮を始めた。手は汗でふやけ始めている。
 「・・・魂の臭いだ。かき消えそうなほど小さなものだが・・・そう、この臭い、覚えがある・・・」
 「おまえは・・・一体何者だッ・・・!」
 力強く叫んだはずだった。しかし、エルの喉から出たものはかすれ、悲鳴のような声になってしまった。その声に気づいてか、男はようやくエルへと視線を向けた。
 「誰・・・か。この気配・・・臭い・・・それはおまえからしてくるようだな」
 フードの男が歩みよってくる。距離が縮まり見えなかったフードの奥が見えてくる。本に書かれているような死神のような髑髏の面をつけている。その奥の眼に当たる部分・・・昏く光る黄金の瞳が見えた。その瞳を見た瞬間、胃が強烈にうねった。フードの男は視線に気がついたようだ。
 「お・・・まえは・・・ゆ・・め・・・のな・・かの・・・」
 呼吸が苦しくて言葉が崩れていく。目も眩みそうだ。ついにエルは床に両膝着いてしまう。
 フードの男はマントの内より一本の長剣を抜く。
 「どうして、おまえが女になったかは知らんが、なるほど・・・道理で気配が消えないわけだ。満月の夜が来るたびに首を傾げたものだ・・・。もう一人はどうした」
 ―――もう一人? どういうことだ? まさか。
 「まぁ、答えずとも、おまえを斬ってから向かえば分かることだ」
 男が長剣を構えた。斬られる! そう思った瞬間だった。

 ゴンッ!

 斬り込もうとした男の利き足を一本のダガーが地面に縫いつけた。
 「エル様!」
 ダガーが飛んできた方向、寝室のドアの方を見ると腕ほどの大きさのダガーを持ったアナが飛び込んできた。男は利き足に刺さったダガーを見ている。
 「ふ・・・いい腕だな」
 くつくつと低く、さもおかしそうに笑いながら男はアナを見た。
 「あの人はどこだ!」
 胸が痛い。エルは上半身が倒れかけそうになるのを抑えて、かすれた声で叫ぶ。あの人が生きている。そう聞いた途端に胸の中でうずもれていた感情が蘇り始めたのだ。
 「フン・・・気がつかなかったのか? まぁ、目覚めていないのだから当然か」
 「・・・どういう・・・意味だ」
 「おまえが動けば、いずれ見つかるかもしれないな。肉体は魂に引かれるものだ。それにあの男にそう仕込まれているだろうからな」
 男の瞳が暗く輝く。
 「おまえ達が出会った・・・その時は二人もろとも葬るだけだ」
 今にも崩れ落ちそうなエルをアナが駆け寄って支える。
 「・・・夜ももうすぐ終わりだ。今日はこの辺で帰るとしよう」
 男が大きくマントを翻す。
 「逃がすか!」
 アナが男を逃がさじとダガーをマントの中心に投げつける。後ろの窓が割れる音がした。闇に溶けるようにマントが消えると男の姿も消えていた。男が立っていたところには一本のダガーが突き刺さっている。そして、窓ガラスが少し割れていた。
 「エル様、大丈夫ですか?」
 表情が凍ったような顔でアナがエルを見つめている。
 「う、うん・・・」
 エルはアナの表情に圧倒されていた。まるで能面のように表情が動いていない。こんな顔をするアナを見るのは初めてだった。
 「エル様」
 アナが歩みよってくる。表情がまったく動かないだけに、あまりの異様さにエルは半歩たじろいでしまう。人の顔一個分の距離まで近づいてきた。
 「は、ハイ?」
 ち、近すぎる。エルは至近距離まで迫ってくるアナにますますたじろいだ。すると、いきなり顔を下に下げて、エルの両手を掴んだ。
 「アナ?」
 「無事でよかったぁ・・・」
 力が抜けたのか、再び顔を上げるアナの表情はいつもの笑顔に崩れていた。
 「ホント、ビックリしましたよ! 様子を見に来たら気配が何故か二つするからおかしいなって思ったんですよ。そしたら変なヤツが入ってるし・・・エル様斬ろうとしてるし・・・」
 いつものアナに戻った・・・。エルの手をブンブン振りながらアナは安心の笑顔をほころばせた。アナの表情が一気に豹変する様を目の当たりにしたため、エルは驚きながらも引きつった笑顔でアナを見た。そして、ちらと部屋の真ん中に斜めに突き刺さったダガーを見る。一体何者だこの侍女は。十六年間も付き合っていて今更ながらに思った。
 しばらくして、アナは床に突き刺さったダガーを抜いた。アナはダガーを持ち、なにやら考えている様子だ。確かにこのダガーは男の足を貫いていた。しかし、男が消えたあともダガーは突き刺さったままだ。
 「エル様・・・さっきのヤツは一体・・・?」
 「わからない・・・でもあいつは知ってる・・・」
 そう、エルはあの男を知っていた。そして忘れることもできない。
 「僕は、あいつに殺されたんだ」

 

 

 欠けはじめた月が照らすオリシアの城の南側。オリシアの国は南側にある高い岩山を背にして造られた、砦としても機能している国である。岩山を半ば抉るようにして建てられたオリシアの城は城と山が一体となっているのである。城の背部に存在する山を貫通した隠し洞窟の中をエルは歩いていた。ハルバードと何か荷物を入れた大きめの袋を背負って。
 「姫様、どこへ行くのですか?」
 背後から声がする、振り向くといつも着ているメイド服ではない、黒い装束を身に纏ったアナがいた。いつもの笑顔はそこにはなく、フードの男と対峙した時と同じ能面のように凍りついた表情でエルを見ていた。
 「エル様。わたしは女王様からあなたがいつかこうやって城を出ようとするのを阻止するように、といつも言われてきました。でも、わたしはあなたが本当に城の外へ出て行くことはないと確信していましたから、今まで放っていました」
 そこまで言うとアナはうつむいて溜息を一つした。そして、エルの顔を見た。エルはその顔を見てハッと息を飲んだ。アナの表情は深い悲しみに包まれていた。
 「どうして今ごろになって・・・どこへ行こうというのです? 今、二つの大国が戦争状態なんですよ? 今、外を出たら命の保証なんてありません。あなたの身に何かあったら・・・」
 「アナ、わかってほしいんだ・・・。僕は今行かなければならない・・・」
 エルは少しうな垂れ、何かを決意したかのように一人頷き顔を上げた
 「どうしても行かなければならない。姉さんが生きているんだ」
 そう言ったエルの赤い瞳に力がこもっているのをアナは感じとった。しかし、アナは眉をひそめた。
 「生きてる・・・? そんな・・・確か先の大戦で死んだ、と」
 そう、エルの姉はエルが生まれる前にある男と一緒に国を出ていき、その結果17年前の大戦で命を落としたと聞いている。エルは首を横に振った。
 「もしかしたらは死んでないかもしれない。僕が生きているのだしな・・・ありえないことじゃない」
 「それは一体どういう意味ですか・・・?」
 独り言のようにボソボソと話すエルを見てアナはいぶかしく感じた。言っている意味がわからない。
 「とにかく、姉さんが生きているかもしれない。だからそれを確認したいんだ」
 「会うことができたなら、あの人と交わした約束が果たせる」
 エルは握ったコブシをさらに強く握った。
 「・・・」
 「アナ、わかってくれ」
 アナに背を向ける。
 「母様にはごめんなさい、とだけ伝えておいてくれ」
 「そんな・・・待って、待ってください!」
 今にも走り出そうとするエルの両肩をアナは掴む。その行動にエルはいぶかしげに振り向いた。
 「待ってください・・・」
 「・・・まだ止める気?」
 エルはアナが力づくで止めようとしているのなら振りほどいてでも行こう、と思っていた。しかし、アナが次に言った言葉は意外なものだった。
 「あなたがどうしても行くと言うならいいでしょう・・・」
 「アナ・・・」
 「でも、その代わりわたしも一緒に行きます」
 「・・・え!?」
 そんなことをしたら母様に、とエルが言いかけたが、
 「このままみすみす行かせて、もしも姫様のお命が危なくなったりしたら、それこそ怒られるどころじゃありません」
 それに・・・。
 「わたしもエル様が心配ですから」
 そう言うとアナは少しだけ笑った。アナの瞳は先ほどのエルに負けないほどの決意が込められていた。
 「・・・どうなるかわからないよ? ホントに危なくなるかもしれない」
 「ふふ、わたしエル様より強いですから」
 今度はいたずらっぽい笑顔でアナはエルに笑いかけた。
 ―――この人は・・・。しかし、エルはあのフードの男の足を正確に刺した能力を覚えていた。きっとかなりの腕を持っている。エルは観念したかのように両手を上げると。
 「わかった、わかった。一緒に行こう」
 「やったぁ! ありがとうございます!」
 エルの許可を得るや否やアナは飛びついてきた。
 「ちょ・・・! 騒いだらマズいよ!」
 歳に似合わず、ピョンピョン跳ねる侍女にエルは少々辟易した。
 ――ホントに三十歳なのか・・・? この人。
 「それじゃ、とりあえずわたし荷物持ってきますね。この洞窟の出口辺りで待っててくださいね」
 そう言うが早いか、振り返るとアナの姿はすでになかった。
 ―――なんつー早さだよ。初っ端からここまで常人離れした姿を見せられるとさすがに呆れるしかなかった。
 洞窟から出てみるとすでに青空が広がっていた。エルは少しくたびれた様子で洞窟から這い出てきた。
 「あの時も思ったけど、ちょっとこの洞窟作りすぎだよな・・・」
 エルが通ってきた洞窟、実は王族専用の脱出口として作られたものだ。そのため、ある程度の時間稼ぎができるよう洞窟内は複雑に作られている。
 せっかく人目につかないように夜が更けてから出発したのに・・・。もう空の真上に太陽が来てしまっていた。
 「オレがコレだと、アナはもっと遅いかもしれないな・・・」
 目の前には森が鬱蒼と生い茂っている。オリシアの国の西側にはアルテ川に沿って森がある。そのため、洞窟の出口を隠すのにもってこいの場所である。
 「アナはもうさすがにこっちに向かってきてるはずだよな・・・」
 さすがにここで突っ立っていたら、洞窟の存在を人に教えてしまうことになる。とりあえずエルは山の壁にメモを書いた紙をナイフで刺し、とりあえずアルテ川へ向かった。万が一、今日中に森を出ることができなかったとしても沢で野宿することもできるからだ。
 兵士の宿舎からくすねてきたスフィル銀で出来たコンパスを頼りに川の方へ向かい始めて数分経った時のことだった。
 ガサガサガサガサ・・・。
 右手のほうの草むらから物凄い速度でこっちに駆け寄ってくる物体があった。草むらを駆ける物体は明らかにエルのほうへ向かってきていた。
 エルは思わず背に負ったハルバードに手をかける。さすがに速度から見て何か異常なものを感じた。凶暴な生き物かもしれない。エルは少し強めに柄を握った。
 ―――ヤバイのだったら、出てきた途端叩き斬ってやる。少し緊張し始めてきて筋肉が硬直する。
 ガサガサガサッ!
 ついに草むらから何やら生き物が飛び出てきた。ハルバードを振りかざそうとするエルにそいつは抱きついてきた。
 「おねーさん助けてッ!」
 草むらから飛び出てきたのはなんと毛むくじゃらの人らしきものだった。必死にエルにしがみつくそれは足から背まで金色の毛並みが生えていて、毛が生えてないところはやわらかい腹と胸と顔ぐらいの毛むくじゃら。
 ―――獣人。しばらく見ていなかったのでエルは少し思い出すのに時間がかかった。この地方ではあまり見ない人種だ。たしかもっと北の方に彼らの国があるはず。背中に大きな荷物袋を何個も背負っているところから見ると商人といったところか。顔のまわりに金色を濃くしたようなたてがみが覆っているところを見ると獅子系の獣人だろうか。人懐っこそうな瞳に怯えを浮かべている。
 「つか、重いよ!!」
 何個も荷物袋を背負った自分より大きい獣人がしがみついてるのだ。 重いはずだ。
 「オレ、追われてるんだよ! アレに!!」
 獣人の男が指を指す方向を見ると、また物凄い速度で何かが近づいてきている。なにやらやばそうだな、とエルはゾクっと背筋が凍った。
 どんどん近づいてくる何かに怯えるような様子で、頼む助けて、とさらにエルに抱きつく。
 「ああもう、わかったから、離れろって!」
 「マジでやばいんだって! 頼むよ〜〜〜〜〜!!」
 途端に、胸元に顔を埋めグリグリと顔面を回転させ始める男。エルは恥ずかしさと気持ち悪さで一気に顔が赤くなる。
 「うあああ・・・・ッ!? 何してんだーーーーッ!!!」
 「ゲフッ!」
 エルは力任せに獣人を蹴り飛ばした。男はそのまま背後にある木に激突しもんどりうった。
背筋をぞわぞわと込みあがってくる嫌悪感をなんとか抑えて、向かってくるものに対してエルはハルバードを構えた。
 今度こそヤバイ。草むらが少し盛り上がっている。結構でかそうだ。
 男は気絶しているようで、ぶつかった木にもたれかかって静かになっている。
 ガサガサガサガサッ!!
 出てきたのは巨大なオオツノブタだった。
 「なんだよ、旅の始めだから景気のいいヤツが出ると思ったのによ」
 オオツノブタはこの辺りの森林を中心に生息する生物で、長く突き出した鼻から大きなツノが一本せり出しているのが特徴の四足動物だ。その肉は生臭いが食べられないわけでもなく、生息数も多いために森の住民からは狩りの対象として狩られる生物ではある。しかし性格は獰猛にして雑食。時にはこうして人が襲われることもあり、そのするどいツノで人を殺傷する危険もある。 
 拍子抜けだ。猛然と襲い掛かってくるオオツノブタにエルは深く落胆した。この姿になって初めての旅。隠し切れないほどの興奮が身を硬くさせていた。しかし、獲物としては小物。こんな相手ではモチベーションが上がらない。そうはいってもこのままでは危ない。
 「まぁ、オレが景気よくふっ飛ばせばいいかッ!」
 真正面から突っ込んでくる自分の身長の二倍ほど大きいオオツノブタに身体を振るって蹴りを叩き込む。前へ物凄い速度で突っ込んできたオオツノブタは避けれるはずもなく鼻っ面に蹴りをもらった。
 ベキベキベキベキッ。
 蹴りを放ったエル自身は蹴りが直撃した瞬間ほんの少しだけ後ろに動いたが、オオツノブタの方は鼻が砕け、連鎖する骨が砕ける音とともに顔すらひしゃげ、首も簡単に折れてしまった。そして少し間、意思朦朧とフラフラしていたが、ついには音を立ててオオツノブタは倒れこんだ。
 「まったく、情けない男だ。オオツノブタぐらいで・・・」
 そう口では言うもののエルは満面の笑みでオオツノブタを眺めている。
 「いい感じだな。蹴りも綺麗に入ったし」
 足をグッグッと屈伸してみる。さっきの勢いで足首を痛めるかもしれないと思ったが、どうやら異常はなさそうだ。
 「せっかくだから、このオオツノブタも頂くか」
 そういうとエルはオオツノブタの首を落とし始めた。
 「おい、起きろよ」
 しばらくして事が収まったので、エルは木の下で気絶している男の頬をペシペシ叩いた。よく見るとヨダレ垂らしている。気絶しているのかと思ったら寝ていた。と、いきなり男は目を覚まし、またもやエルに抱きついてきた。
 「うわー、こわかっ・・・」
 バッチーン。

 

 「いや、助かった! あのまんまだったら、オレ突き殺されてるか跳ね飛ばされてたよ」
 真正面の顔面にクッキリと手の跡が残った状態で男は腹から抜けるように快活に笑った。エルは明らかに嫌 悪の表情を浮かべて男を見た。こいつ、さっきのは全部ワザとじゃないのか?
 「それはいいから、ところでアンタ、この辺で何してんだ?」
 「実はさ、この近くの町へ商売しに来たんだけどさ。いや、まいっちゃったよ。腹減ってさ、ちょうどオオツノブタがいたから弓ひいたら、コイツが思いのほかデカくてさー。あはははは」
 情けない男だ。エルは溜息をつく。自分ですら持て余すほどの獲物を狙って、しかもそれの処理を女に任せるなんて・・・。
 「それであのオオツノブタはどうなっちゃったんだ?」
 脳天気に聞いてくる男に呆れつつも、エルは自分の後ろを指差した。
 「ん・・・?」
 そこには首を丸々切断された巨大な獣が横たわっていた。
 「うはっ、すげぇな!? アンタ一体何者だい!? もしかして戦士とかだったりするんか!?」
 「エル様ッ!」
 あまりの興奮にツバを飛ばしながら寄ってくる男の顔を押し避けようと振り向くとアナが走り寄ってきた。
 「やっぱりエル様だ。よかったぁ・・・メモに書いてあった川岸に行ってもいないから、てっきり迷ってるかと・・・」
 「大丈夫だよ。コンパス持ってるしね」
 「おおお・・・なんか今度はオトナのおねーさんだ・・・!」
 エルに押し退けられている男はアナの方を見てやや興奮気味に鼻息を荒くしていた。
 「・・・? エル様、この人は?」
 アナは、そこでようやく獣人の男に気づいたようだ。
 「そうだよ。名前聞いてなかった。オマエ誰?」
 オレ?男は自分を指を指し、自分のことを聞かれていると気づくと何故か自信たっぷりに胸をふんぞりかえって、
 「オレの名前はアマンってんだ。商売しながら香辛料を買いにオヤジと西から来たんだ」
 アマンと名乗る獣人は自慢げにフフンと鼻を鳴らした。
 「で、そのオヤジはどうしたんだ?」
 「ああ、さっきのオオツノブタ騒動ではぐれちまったんだよ・・・まいったな」
 そういうと顎に手をやって何やら考える仕草をし、すぐに何か思いついたかのようにエルの方を向く。
 「頼む! オレ一人じゃ危ないからさ、一緒についてっていいか!?」
 アマンはパンッと両手を叩くように合わせるとその状態でアタマを下げた。
 「迷惑か!?」
 「いや、迷惑ってわけじゃないが・・・」
 そこまで言ってエルは、さっき胸元に顔を埋められてしかもグリグリまでされたことを思い出した。
 「・・・ッ! だっ、ダメだ!! ダメだダメだッ!!」
 思い出しただけでもまたゾワゾワしてくる。
 「こいつと一緒に旅したら何があるかわからない! さっきも変なことしやがったし!」
 「さ、さっきのはオオツノブタでちょっと動転してただけさー」
 「それでもダメだ!!」
 こいつは危険だ、身の危険を物凄く感じ、エルは断固拒否しようとした。
 「さっきみたいなことがあったらたまらない! ダメだ!」
 自分の身を両手で抱くしぐさをしながらこみ上げる嫌悪感を思い出して震えるエル。しきりに首をブンブンと横に振る。
 「・・・でも、ちょっと可哀相ですよ?」
 アナはエルの物凄い拒否に少し驚きながらアマンを指さした。
 ―――え?
 エルが振り向くとそこには、先ほどと打って変わってゲッソリした顔のアマンがいた。
 「どうしよう・・・これから先、もしオヤジが見つからなかったらオレどうしたらいいんだ・・・うわああああっ!!」
 バリボリバリボリと物凄い勢いで頭を掻き始めるアマン。ふけが飛ぶ。
 「せっかく助かったのに、これで今度は野垂れ死になんかしたりしたら・・・」
 まるで、助けたからには責任とれ、とでも言うような言動である。アナのほうを向いても苦笑するばかり、このままでは血まで出てしまうのじゃないか、というほどまでさらに頭を掻く。ふけの飛ぶ量も増える。これにはエルも耐えかね、
 「わかったよ!! 連れて行けばいいんだろ!? 連れて行けば!!」
 つい折れてしまった。

 

 一行がアルテ川の川下にある町メッチェに着いたのは宵の口だった。
 「変な拾い物をしたせいで時間がかかってしまったな」
 そういうとエルはじと目でアマンを見た。
 「変な拾い物ってオレのことかよ」
 邪険に見るエルの態度にアマンも苦笑するしかなかった。
 「まぁ、そういうなって、これでもオレは商人だ。多少は役に立つと思うぜ?」
 「ホントかよ・・・オオツノブタすらてこずるくせに」
 「エル様」
 エルのすぐ横で二人の会話を珍しく黙って聞いていたアナが突然エルの耳を掴んだ。
 「いててっ!?」
 「ちょっとこちらへ」
 耳を掴んでエルをアマンから遠ざけたアナは眉間に皺を寄せて、
 「さっきから聞いていましたがなんですか。その喋り方は。ご自身のことをオレだなんて、本当に男みたいじゃないですか」
 「いてて・・・いいじゃないか。今は身分を隠しさないと面倒なことになるし、それにオレはこのほうがやりやすいんだよ」
 掴まれた方の耳が相当痛むのかエルは顔をしかめて掴まれたほうの耳をしきりにさすった。
 「そういや、お二人さん何者なの?」
 いつの間にかすぐそばまでアマンが近づいていた。
 「おわっ!? いつのまに!?」
 あまりの至近距離で声をかけてきたのでエルもアナも驚いて半歩下がった。
 「オレだけミソっかすはなしだ。で、自己紹介はオレしかしてないぜ?」
 上手いことごまかせたと思ったのに・・・。エルは少し溜息交じりに頭をバリバリかいた。正直、いいウソが思い浮かばない。
 「・・・エルリーナ。一応、傭兵してメシ食ってる」
 「わたしはアナスタシアです。エル様のじ、はぐッ! ・・・い、いえ、同僚ですわ」
 余計なことを話そうとして、エルにかかとで思いっきり足を踏み込まれる。脂汗をかきながらも丁寧にアナはお辞儀をした。
 「へー、やっぱり傭兵なのか? あの辺はオリシアに近いからそこの兵士かとも思ったよ」
 「確かにオレ達はオリシア出身だけど、あそこは女を兵士にすることはないよ。たまたまオレの婆ちゃんが危篤でさ。死に目に立ち会っただけなんだよ」
 アマンはへー、といった感じで聞いていた。ちょっと無理があるが、どうやら信じてくれそうな雰囲気にエルは心の中で小さく安堵した。実際は、オリシアは鎖国をしている国であり、国を出る人竜は重罪であり、国を出た人竜は帰郷することを許されていない。
 しきりに一人納得していたアマン。その様子にエルは安堵し宿が並ぶ通りを指差す。
 「それじゃ、とりあえず宿を探そうぜ」
 町の入り口で止まっていた一行の足が再び町の中へと歩き出す。
 アナは自分の背に生える翼を好奇の目で見る人々の目に気がつき、少なからず不快に思った。オリシアを出た今、ここはアドナ領だ。ほとんど人竜族はいない。ここから先は、ほとんどの民衆はアドナの民族である耳が尖って長いことが特徴の耳長族である。ここが異国なのだとアナは改めて感じさせられた。
 メッチェは森林地帯に存在する町の中でも比較的大きい町だ。アドナの一都市として機能しているこの町は森に存在する各村から物資が集まり、アルテ川から河川船を使って河口にある都市に物資を運ぶため、それによって運搬、商業で発達した町だ。町自体の大きな産業は河川船ぐらいなものだが、集まってくる木材や農産物、少ないながら鉱物によって、ここの住民はそれなりの暮らしを成立たせている。
 日も沈みベルベットの幕が空から下りてくる中、町はガスランプによる明かりでいっぱいになる時間だが、町の主となる大通りは人々の往来で賑やかだった。商業が幾らか発達しているため、夜になっても買い付けなどの商人や住民の足が途絶えない。
 「このへんではやはりここが一番賑やかなもんだな。メッチェに来るのは久しぶりだ・・・」
 一人ごち、小さく呟くエルの言葉をアナは聞き逃さなかった。
 ―――久しぶり・・・? エルは生まれてからのほとんどを城で暮らしていた。外に出るとは言えど国の外など出たことはないはずだ。
 「エル様・・・」
 「そのことなんだがな」
 話し掛けようとしたアナをエルが遮った。
 「今はオリシアの外だ。あまり身分を知られたくない」
 何を言わんとしているのかは、すぐにわかった。
 「あまり畏まった言葉は使わないでくれ。姉さんを探すために旅に出たとは言え、オレもあの城からせっかく出たのに、アナがそれでは息が詰まりそうだ」
 「ですが・・・」
 「怒る人なんて今はどこにもいないよ? それにアナのほうが年上だろ」
 今まで、敬語で仕えてきただけにいきなりは少々難しい。だが、命令とあらば・・・。
 「わかりました・・・なるべく努力しますね」
 そういうとアナは小さく微笑んだ。
 「あはは、よろしく頼むよ。それで何か話しかけようとしたみたいだけど・・・」
 「あ、いえ。いいんです」
 姫が生まれた頃よりの疑問だ。今更聞いても答えてくれるとは思えない。
 「・・・」
 気がつくとエルは抗議めいた視線でアナを見ている。
 「アナ・・・約束はちゃんと守ってもらいたいね」
 前の発言のことを言っているのに気がつき、アナは苦笑いした。大雑把な性格の割に細かいこと気にする。
 「わかったわかった。これでいいんでしょ?」
 アナは苦笑いから一転して開き直ったかのように笑った。
 「ん、よろしい」
 そういうとエルはニカッと少年のように笑ってみせた。

 

 同じ頃、姫がいなくなったという騒動で城内は人々が慌しく駆け回っていた。宰相や役人は慌しく対応について議論をし、兵士どもは国内を捜索するため、物々しい数が城から出て行っている。しかし、夜頃になり国内にはいないのではないか、国外へ出て捜索するべきではないかという話まで出てきていた。
 執務室に三人の宰相がイリアの意向を聞くために集まってきていた。三人とも重い表情で机の前に立っている。
 「イリア様・・・エル様が・・・」
 重い表情の雁首が一つ顔を上げ、ぽつりと言葉を口にした。城内の皆そうだが、イリアは誰にとっても脅威の存在だ。何かあったとしたら例え宰相ですら容赦しない性格。もしかしたら自分たちはタダでは済まない状況かもしれない・・・。宰相たちの顔からそういった苦渋に満ちた表情が滲み出ている。
 「わかっている。アナが報告に来たわ」
 「なんと!? アナスタシアが!?」
 女王の口から意外な名前を出て、三人ともほぼ同時に間の抜けた顔を上げた。
 「あやつめはなんと・・・?」
 「・・・どうやら、姉を探しに行ったようね」
 「姉君を、でございますか・・・? しかしながら、姉君はすでに・・・」
 一人の宰相が当然のことを当然言った。姉姫であるエルリーナはすでに亡くなっている。これはオリシア国内の誰もが認めている事実である。
 「アナもやはりあの娘の真意を測りかねているみたいね」
 「しかし、何故エル様は御帰りになられないのですか? アナスタシアが連れて帰ってくるはずでは・・・?」
 「わたしが旅に出ることを認めた」
 女王の言葉に宰相たちは驚いた。
 「しっ、しかしそれで、万が一エル様に何かあっては・・・!」
 「アナがいるから大丈夫でしょう」
 動揺する宰相を尻目にイリアは再び書類に目を通し始めた。これ以上、この話題で話すことはない、ということのようだ。
 「イリア様!」
 「話はそれだけです。下がりなさい。あと、城内が騒がしいけどそれも収めるように」
 そういうとイリアは鋭い眼で一瞥くれると再び作業を始めた。オロオロする宰相たちは仕方なく執務室から出て行く。
 ドアが閉まる音がする。
 イリアを残して誰もいなくなると、イリアは溜息を一つし、まぶたをグリグリと指圧する。ここのところ、書類があまりにも多く、夜すら作業に明け暮れる毎日だ。まぶたに熱とともに疲労感が漂う。そんな中で、エルの家出だ。
 コンコン。
 「イリア様・・・お客様が・・・」
 ノックとともに侍女がドアから顔を出す。来客・・・何も予定も連絡もないはずだが。イリアは眉をひそめる。
 「失礼する」
 侍女を押し退けるように一人の男が入ってくる。黒髪に銀の仮面をつけた男、身なりはその仮面に合うように白の服を身に纏っている。体格は割といい方のようだ。仮面の奥の瞳は黄金に輝いている。
 「ちょっと・・・いけません、勝手に!」
 「ああ、あなただったのね。いいわ、構いません。入れなさい」
 強引に入ってくる男に侍女は非難めいた表情で押し戻そうとするが、イリアが止めたため、しぶしぶといった風に失礼いたしました、とお辞儀をして出て行く。イリアは男の顔を認めるとしかめていた眉を緩める。持っていた  ペンを再びインク瓶に挿すと、
 「久しぶりね。あれから十六年経ったかしら?」
 イリアは社交辞令のような笑顔を作って男を向かい入れる。しかし、その瞳は依然として鋭さが宿っている。男のほうは、表情は仮面に阻まれて伺えないが、少なくとも笑っているようではなかった。
 「娘が家出したそうだな」
 「あら、いつ聞いたの?」
 「あれだけ城内で騒いでいればわかる」
 そういうと男は執務室の真ん中にある応接用のソファにドカッと座った。
 「時は満ちた」
 「そう・・・」
 一言だけ男が言うとイリアの表情が初めてそこで曇った。まるで今までの表情が仮面だったかのように溶けるように表情が変わっていく。
 「わたしは子供を育てる資格がないのね・・・愛することができない」
 イリアの表情には苦渋が満ちていた。今まで彼女の後悔が溢れるように出てくる。
 「また娘が家出してしまったわ」
 「二十年前のことは仕方が無かったかもしれない。しかし、今回はわかっていたことだ」
 男はきっぱりと言う。
 「これは定められていたことだ。あなたがどうしようが彼女はこの国を出ていただろう」
 さばさばとした様子で語る男に対し、イリアは苦笑めいた表情が宿る。
 「あなたからあの魂を受け取った時、わたしはチャンスだと思った。それなのに、どうしていつもああやって扱ってしまうのかしら」
 「それは、その魂が彼だからだろう。あなたはまだ彼のことを恨んでいる」
 「そうかもしれない、そうかもしれないけど・・・あの子は・・・ホントのあの子は彼ではないわ・・・」
 イリアは両手で自分の顔を覆った。
 「そのとおりだ」
 男は立ち上がって、イリアを見下ろす。
 「彼女には目覚めてもらう必要がある。そうでなければ困るからな」
 男はイリアに背を向け部屋を出て行く。
 「彼女の命は私が預かる。イリア、あなたがどう思っていようが、この先は決まっている。せめて、彼女といた時のことを思い出として大事に胸にしまっておくといい」
 「我々の楽園のために」
 そういうと男はドアを閉めた。
 ―――あの方が何者なのか、お供をして見極めたい。
 そうアナは言っていた。
 「アナ・・・あの子を守って」
 イリアの顔を覆っていた両手を伝って涙が零れ落ちた。

 

 「ところで、これからどうするの?」
 ようやく一行の宿が決まり夕飯にありつき始めた頃に、アナが口を開いた。
 メッチェに着いたものの、これから先の行き先は決まっていない。二人ともエルを見るが、当の本人はパスタと格闘中だ。元々、エルはパスタを食べるのが苦手でフォーク一本では食べることができず、城ではスプーンを添えて食べていた。
 「そうだなぁ、まだ着いたばかりで何も考えてなかったな」
 ぐるぐるぐる。
 「・・・エル、その食べ方はなに?」
 ぐるぐるぐる。
 「なにって、こっちのほうが食べやすいじゃん」
 ぐるぐるぐる。
 フォーク二本使って大量にパスタを巻き込んでいる。山と盛ってあった皿にはもはやパスタの姿は跡形も無い。
 「エル、行儀が悪い」
 「いいじゃないか、このほうが性に合ってんだ」
 そのまま、巻き込んだパスタに喰らいつく。その豪快な食べ方にアナは溜息をついた。城の中ではまだ立ち振る舞いに女性らしさがあった。しかし、城を出てからは口調、振る舞い、すべてが男のそれに変わりつつある。むしろ、男の中でも汚いぐらいのものだ。このまま、男そのものになってしまうのではないだろうか。横で一緒に見ている男のアマンですら、その光景を苦笑混じりの表情で見ているではないか。
 「どうした?」
 当の本人はのほほんとした具合でアナを見ている。自覚などあるはずがない。ましてや、この侍女の気持ちなど分かろうはずもない。
 「・・・まったく、いつからそんなにお行儀が悪くなったんでしょ。お城にい・・・」
 「ゴホンッ! 今後のことなんだがな」
 愚痴とともにぽろっとこぼれそうになるアナの失態を遮るようにエルは切り出す。
 「とりあえずアドナの領地入ったことだし、王都へ向かおうと思ってる」
 「王都へ?」
 エルは皿に重ねるようにフォークを置き、座りなおす。そういえば、あの大量にあったパスタはどこに行ったのだろうか。
 「そう。ここにいても、何もわからないからな。王都に行けば何か聞けるかもしれない」
 「そうね」
 エルの言葉にアナもうなずく、確かにあまりにも手がかりがなさすぎる。とにかく今は動くしかない。
 「あのー・・・」
 頷きあう二人に、アマンが恐る恐ると言った具合に話に入ってきた。
 「さっきから疑問だったんだけど、何か探してるのか?」
 二人共、アマンを見る。そうか、知らなかったのか。あまりにも自然と溶け込んでいたので存在すら忘れるところだった。
 「あー、まぁ、探し人ってやつだよ」
 説明に窮して、言葉を濁してしまうエル。
 「探し人って? お尋ねものかい?」
 「いや、そんな大したものじゃないんだ」
 エルは頭を掻いた。
 「探してるのは、俺の姉さんなんだ」
 「姉さん? なんだいきなり普通になったな」
 「普通とはなんだ。生き別れてようやく探す機会がきたんだ」
 アマンの普通という言葉にエルは少しムッときた。他人の悲劇を普通とはなんだ。
 「ああ、今のは失言だったな。スマン」
 すぐに謝罪するが、エルは少し気が治まらなかった。
 「普通ってどういうことだ」
 「いやなに、今アドナとマドルオで戦争をしていてアドナは押され気味だ。ここはそこまで戦争の陰は見当たらないが、グレンまで行くとそうはいかない、国境が近いあそこは今地獄と化しているからな。生き別れなんて日常茶飯事のなかのひとつとなっているわけさ」
 二人とも今までオリシアにいたおかげで情勢がつかめていない、アマンの言葉はそんな二人にとっては未知のものだ。アナはアドナの敗走ぶりを聞いて少しの動揺を覚えた。
 「アドナを・・・今、アドナを治めている王は誰だ?」
 震える声でエルが言葉を搾り出す。よく見ると手も震えている。
 「確か、王は十七年前に第三皇子が死んでまもなく崩御したと聞いたな。それと今は第一皇子が王位に就いて国を治めていると聞いた」
 さすがに国を渡り歩く商人だけあって、ちゃんと国のことを知っているようだ。アナはエルの表情を覗く、少し下がった顔からは表情が硬直している姿が見て取れたからだ。
 「そうか・・・、ならなおさら王都へ向かわねばならないな」
 力なく席を立つエル。少し頭はうなだれ、さっきとうって変わって元気がないように見える。
 「エル?」
 「今日は疲れた。先に部屋で横になるよ」
 そういうとエルは食堂を後にする。その姿を見守っていたアナの表情にひとつの確信が浮かび上がっていた。

 

 

 ガチャ、ガチャガチャ。
 ―――開かない。
 ―――ここも開かない。
 寝静まったメッチェの街で乱暴に鍵を開ける音がする。
 一人の男は焦った様子で次々へと街に並ぶ家という家に鍵を差し込んでは鍵を回す。
 「開かない・・・開かないんだよお・・・」
 乱暴でぎこちない手つきで鍵を差し込んでは回す。しかし、どの扉もその鍵では開かない。ここも違うようである。
 ガチャガチャ。
 「おい! なにしてるんだ!」
 警備のために巡回していた自警団の一人が闇に蠢く男を見つけた。
 「ひっ・・・」
 自警団の男の厳しい表情を一目見るやいなや、小さく悲鳴をあげると男は一目散にさらなる闇へと逃げ込んでいく。捕まる!
 「コラァ! きさまどこへ行く!」
 背後から自警団の男が仲間を呼ぶ声がした。振り向いては捕まってしまう。懸命に走る男。
 「どこだよお、どこにあるんだよお」
 ボロボロの布切れをまとった小汚い男が闇のとばりに閉ざされた街を彷徨う。ガサガサにかさばったその手には一本の鍵が握られている。
 「どこにあるんだよお、おれの家」
 泣き出しそうな顔で懸命に走る。しかし背後から自警団の男たちが怒鳴る声が徐々に近づいてくる。
 男はこれ以上走る速度を上げられない。
 おれは別に悪いことなんかしてない!
 男はそう叫びたかった。
 家を、自分の家を探しているだけなんだ。
 本当に男は自分の家を探しているだけだった。しかし、自分の家の場所が見つからないのだ。
 ある時から、男は自分の家を見失っていた。あの男が触った時から。
 闇の暗さに恐怖し、必死に家を探し続けたが、未だ見つからない。記憶も徐々になくなっていく。もはや自分の家がどんな様子だったのかも覚えていない。ただ、手がかりは手に持つ一本の鍵のみ。
 走る先に、影が切れて月光が差し込む場所が見える。路地の出口だ。本能に誘われて男はそこへと駈ける。しかしその後ろから、ついに男の首に手がかかろうとしていた。その時、男は消えゆく記憶の中から一つの出来事を思い出した。

 ―――落し物だ。

 その夜、男は仕事の憂さや居ても癒されない家への不満を酒場で呑むことで晴らし、帰路へ着くとこだった。
 「・・・あれ?」
 溜まった鬱憤を晴らす代償としてしこたま呑んだためにふらつく足で歩きながら、ふとズボンのポケットをまさぐった。家の鍵をなくなっている。
 「んー・・・おっかしいな。酒場におっことしたのか?」
 男はしきりに胸ポケットやズボンの他のポケットもまさぐるものの、見つからない。
 徐々に焦り始めた男はそこでどこかに置いたか必死に思い出そうとグルグルと歩き始めた。しかし、いくら酒で酔った頭のなかを掘り返しても思い出せない。
 「しまったなぁ、きっとかかあはすでに家の鍵を閉めちまっただろうし。この時間に家の扉をたたくとかかあが怒鳴るだろうな」
 ぶつぶつとぼやきながら、街路を歩きながら鍵を探す。しかし、どこを見ても見つからない。
 「おや、アルカンさん。どうしたんだい?」
 酒場に戻ると、店を閉めようとしているところだった。男はわけを話し、店のなかを探した。しかし、自分がいたテーブル見ても、何度も入ったトイレを見てもやはり見つからない。
 「アルカンさん、道で落としたんじゃないのかね? あたしも掃除したけど、それらしいものはなかったよ」
 いよいよ困り、元来きた道を戻りながら鍵を探そうと思ったその時だった。
 背後から、肩をつかまれる。
 「これはアンタの鍵かい?」
 振り向くと、白銀の仮面をつけた白い立派な服を着た男が、鍵を一本差し出していた。間違いなく男の家の鍵だった。
 「おお、どこの旦那か知らねぇが、すまんな。これが無ければ家に入れないところだったんでさ」
 男に礼を言うと鍵を受け取った。男は気がつかなかったが、かすかに鍵は鈍く光を放った。仮面の男は仮面に隠れた瞳を細めた。
 「へへ、間違いなくうちの鍵でさ。旦那、一体どこでこれを拾いなさったんで?」
 「そこの路地で拾った。持ち主がわからなくて、どうしたものかと思ってたところに、アンタがキョロキョロと地面を見渡していたからもしや、と思ったのだよ」
 男は恥ずかしそうにハゲた頭を掻きながら、
 「面目ねぇ。オレも呑みすぎたようでさ」
 「今度はちゃんと家に帰れるといいな」
 そういうと仮面の男はマントを翻し、町の闇のなかへ消えていった。
 今時優しい人もいたものだ、と感心すると男は再び帰路に着いた。
 「やれやれ、ずいぶん遅くなってしまったな」
 家に着いたころにはすでに家のなかには光は無く、家族もすでに寝てしまっているようだった。おかげで妻にどやされないで済むと安堵しながら、扉に鍵を差し込む。しかし、
 ガチャ。
 「あ、あれ?」
 ガチャガチャ。
 ガチャガチャガチャ。
 「な、なんでだ?」
 いくら鍵を回しても扉が開かない。
 さすがに焦った男はさらに乱暴に鍵を回す。しかし、まったく鍵が開く様子がない。
 「ど、どういうことだ?」
 まさか、鍵を見間違えたのではないかと思った男は慌てて、鍵を抜き取り、形状を確認する。暗さで少し分かりにくいが、確かに家の鍵だ。間違いない。
 しかしどういうわけか、いくら差し込んで回しても扉が開かない。
 「コラァ! きさま、そこで何をしている!」
 自警団に怒鳴られ、驚いた男は思わず逃げ出してしまった。
 男は走りながら、すっかり酔いの醒めた頭で必死に考えた。わけがわからなかった。一体どうしてこんなことになってしまったのか。
 あれから、懸命に走った。いつしか自警団を巻いてからも走り続けた。気がつけば、夜は終わり、西から日が昇るのが見えた。暖かい光が街路と男を包み始める。
 「ぐっ・・・? があああぁぁぁ・・・!!」
 光は男を暖かく包み込まなかった。次第に男の身体は日の光に焼かれ、全身が徐々に焦げて黒ずんでいった。崩れ落ちるように膝を落とした男の顔がちょうど真下にあった水溜りが照らす。黒く焼けたその顔は醜く焼けて溶け、もはや、自分ですら認められない別人の顔に成り果てていた。
 日の光から逃れるように走る男。暗い路地を駈け、いつしか自分自身を失っていった。記憶が抜け落ち、自分の家を忘れてしまった。男はすがるように町中の家という家に唯一の手がかりである鍵を差し込む。もう姿形すら覚えていない家を見つけるために。

 男は思い出した。
 あの男が鍵を拾わなければ、
 自分がその鍵を受け取らなければ、
 時は、もう遅かった。
 手に握り締めた鍵はただ静かに男を蝕んでいった。

 

 

 「え、連絡船が出ない?」
 一夜明けて宿を出たエルたちは、アドナの王都へ向かうべく王都行きの連絡船に乗るべく発券売り場に来ていた。
 「はい、連絡船の駆動装置が故障してしまったために修理を依頼している教団員待ちとなっていまして、しばらく運行できないんです」
 機械的な営業口調で話す販売員の言葉にエルは呆気に取られた。連絡船に乗れないとすると、この広大な森を歩いて出ないといけない。ましてや、森を出たとしても、王都まで二ヶ月はかかるかもしれない。
 「もしよろしければ、緊急用に用意しておりますが、こちらは三万ルナになりますね」
 三万ルナ、五千ルナが通常の料金なので、六倍である。いくらなんでもぼったくりな値段である。なるほど、横で買ってる人間の上品な身なりを見ると、これは元々金持ち用、設定値段が高いはずである。三人で乗ったら九万、城から飛び出してきたも同然でロクに用意できなかった今の所持金では足りない。ため息ぐらいしか出せるものがない。
 「いや、それはいいです・・・」
 エルは力無げに手を振って売り場を出た。それを外で待っていたアナが寄ってくる。
 「エル、どうしたの? 券は?」
 「ダメだ。今、船がトラブってて緊急用しかないんだと」
 げんなりと肩を落とすエルの様子を見て、
 「なるほど、緊急用は遊覧船だったのね。まぁ、いいじゃない。お姉さんを探すなら、歩きながら情報集めたほうがいいわよ」
 「あああ・・・こんなでかい森林を歩いて抜けないといけないなんて」
 「何言ってるのよ。ほら、そうと決まったら森を抜けましょ!」
 「ぐっ!?」
 がっくりと肩を落としているエルに、アナはボンと少し強めに背中を叩く。
 「げほげほ、そういうことになったけど、まだおまえも一緒に来るのか?」
 背中をさすりながら涙目でエルはアマンを見据える。この森はとても深くこの国の三分の一を占めるほどの広大な森だ。霧も出やすく、迷うと簡単には出れない場合も多い。おまけにオオツノブタのような獰猛な動物も多いのだ。
 しかし、そんなことおかまいなしに、アマンはニッと鋭い牙が並ぶ歯を見せて笑う。
 「全然おっけー!」
 こいつ・・・。これだけ面倒なことになったから抜けてくれるだろうと思ったエルの思惑も脆く崩れ去った。
「さぁさぁ、出発しましょ!」
 アナにせき立てられる歩き出すエル。こんなんでいいのだろうか。エルは少し不安になった。そして、いよいよ街の出口に向かって歩き出したその時だった。
 「コラァ、待たんか!」
 一人の男が、三人のすぐ横の路地から飛び出してきた。ボロボロの布を身体に巻きつけ、布の端から見え隠れする身体は焦げたように黒ずんでいる。後ろから自警団の男が追って出てくる。変質者か。エルもアナもあまり気に留めなかった。
 「あああああ・・・!!」
 路地から出た男の身体が日の光を浴びて、さらに焦げていく。しかし、エルの姿を認めると何かを見つけたかのように、歩みよってきた。黄色く濁った瞳は今にも涙が溢れんばかりだ。
 「な、なんだよ」
 「ついに見つけた・・・」
 あまりの異様な様をした男にエルは思わずたじろぎ数歩下がる。しかし、男は黒く焦げた手でエルの白い手を掴んだ。肉が焦げる嫌な臭いが男の身体から流れてくる。男は懐から一本の鍵を取り出した。
 「やっと、見つけた・・・!」
 「エル!?」
 ずぐぐ・・・。
 「オレの家・・・」
 懐から取り出した鍵を男は、エルの胸に突き刺した。
 鍵はエルの中に溶けるように入っていく。
 ドン。
 ドン。
 ドン。
 鍵が入っていく瞬間、エルは自分の中で知らないドアが内側からノックされる音を聞いた。
 身体の中に入っていった鍵がそのドアの鍵を開ける。身体に刺さった鍵が男の手によって回される。
 カチャ。
 エルの頭の中で鍵の開いた音がした。ドアが開く。
 「・・・ッ!」
 エルは全身の毛が立つような感覚に襲われた。今までに感じたことのない感覚が電流のように流れる。その瞳からは涙が零れ落ちる。その感覚は、快楽に似ていた。背筋を冷たい指でなぞられるように身体をのけぞる。
 「あ、あ、あ・・・」
 「え、エル様!?」
 アナが男を払いのけ、今にも崩れ落ちそうなエルの両腕を掴む。そうしているうちに鍵はエルの胸のなかへと入っていった。
 「これで帰れる・・・」
 アナに払いのけられた男は家屋の壁にもたれかかり、そうつぶやくと涙を落とした。男の目の前には一人の女性がいた。
 「ただいま、母さん・・・」
 パキ・・・パキパキパキ・・・。
 黒ずんでいた男の身体が急に赤く染まっていく。その顔は安らかな笑顔、死に行くものの安らかさをたたえていた。そして、全身が赤く染まった男の身体は、ガラスのように割れて、空に破片が散っていった。
 「ああああ・・・」
 「エル様! エル様!!」
 エルの身体が痙攣をし始めた。目の前にあった街並みは見えなくなり、暗闇にぼんやりとあるドア見えた。徐々にゆっくりと開かれていく。ドアの向こうに何かが見えてくる。
 「おと・・・さん・・・」
 パンッ!
 「きゃっ!」
 エルが背負っていたハルバードがホルダーから弾けとんだ。その衝撃でアナはエルから手を離してしまう。そして、支えを失ったエルはその場でへたりこんでしまった。
 ピシ、ピシピシピシ!
 ホルダーから弾けとんだ白銀のハルバードの全体に螺旋の溝が生まれる。そして、ハルバードは回転し始め、象って形から一本の棒へとほどけていく。
 離れてしまったアナはエルを見て、ハッと息を呑んだ。
 ハルバードがほどけていく光景をぼうっと見つめるエルの瞳が黄金に染まっていくのが見えた。

 

 男が出て行った路地から一人の男が見ていた。白銀の仮面をつけた男。暗がりのなかで男はつぶやく。
 「封印は解かれた・・・」
 仮面の奥の瞳を細めると、男は翻って昼間の闇へと姿を消した。

 


 メッチェから少し行った森。木々で生い茂った薄暗がりに二人の人影がいた。
 「兄上、気がついたか」
 「ああ、気がついた」
 片方の人影がせわしなく踊るように蠢く。その様子は喜んでいるかのようだ。
 「あの匂いがするぜ」
 「父上の言ったとおりだ」
 「どうする? 兄上?」
 「お前は父上に知らせろ、あいつが目覚めたと、な」
 「兄上はどうするんだ」
 大げさに手を振りながら片方の人影はもう一方の人影に聞く。
 「オレはあいつを見てくる」
 「兄上、それ抜け駆けだよ」
 「兄キなんだからいいんだよ! 早く行け!」
 片方の人影がもう一方の人影をポカリと叩く。
 「兄上、オレの分もとっとけよ!」
 叩かれた人影はしばらく名残り惜しそうに叩いた人影を見ていたが、地団駄踏むと去った。
 「さて、今度のあいつはどんな味がするか、楽しみだ」
 残った人影から舌なめずりする音が聞こえる。そして人影は静かに笑った。その笑い声と一緒にざざざと木々も風に揺られて笑った。

 

 

 


〜つづく〜

 

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