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 それはここではない、どこかの話。
 いまだ世界は緑に包まれ、まだ豊かさが溢れている世界の話。
 その世界はまだ神が生きていた。

 


 ここは大きな山々に囲まれた静かな里。今は漆黒の夜に包まれ、人もまた静寂の眠りについているはずであった。しかし、今宵は少し様子が違う。里はまだ光で溢れ、まだ人々が蠢めいている。

 ――お山のヌシ様が娘一人をご所望だ。
 ――娘を一人持っていきなさるぞ。

 里から少し離れた山の入り口のあたりから炎によって橙に灯る光で築かれていく道が見える。それは生贄の道。


 里の人々は思い思いに儀礼のための着物で列を成している。そこには女性の姿はなく、唯一そこに参加している女性はただ一人。黒い着物に身を包んだ男たちが担ぐ神輿の上に座る女性一人だけ。白を基調として 赤で彩られた煌びやかな着物に身を包んだ女性は静かに座している。その顔は絹の布によってすっかり覆われ、顔かたちも表情も窺い知れない。姿かたちからすればまだ幼さが残る少女の身体なのが見て取れる。しかし少女を乗せた神輿を担ぐ男たちもまた一様に口を閉ざし、静かに、神輿をあまり揺らすことなく、慎重な足取りでゆっくりと山へと入っていく。それはまるで死者を弔うが如く、厳かで悲しみに満ちている。
 神輿のすぐ横を歩く初老の男はしきりに少女の様子を盗み見るようにそちらを窺う。白髪で顎もまた白い髭を生やした男の顔は青くて白い。表情がすっかり硬直し、全身の震えの止まらない男は、まわりの男どもに聞こえないように少女に向かって言葉を呟いている。

「レン許しておくれ……山のヌシ様は絶対なのじゃ……わしら里の者はヌシ様の恩恵がなければすぐに滅びてしまう。ヌシ様あってこその我らなのじゃ……」

 男はすまない、すまないとしきりに口にする。しかし、レンと呼ばれた娘はその言葉が聞こえていないのか、ただ黙って神輿の上に座しているばかり。しかし親である男は見開いた目をただまっすぐに向けて、娘の様子にかまうことなく、謝るばかり。その様子を見ていた男たちの視線から憐れみの色がちらと見える。

 ――かわいそうに、器量のいい娘だったのに。
 ――巫女様がお選びになったのだ。これはヌシ様のご意志。逆らえはせぬよ。
 ――しかし、まだ歳若い。ワシはそれが不憫でならぬ。

 ひそひそとどこからともなく漏れる男どもの会話は娘の耳にも届いていた。偽善に満ち満ちた会話、所詮は他人事であろう。その会話を受けてもなお娘は振り向くことなく凛とした態度で静かに座している。
 神輿は徐々に山の中腹に向かおうとしている。徐々に鬱蒼と繁っていた木々の切れ間が見えてきた。そして、その先から大量の水が流れ落ちていく音が聞こえてくる。
 神輿が向かうは中腹にある巨大な滝。その滝はどれほど大きさだろうか、切り立った崖から落ちる大量の水は圧倒的な質量と音量を持って下の川へと叩きつけられていく。その姿に里のものは巨大な大蛇が豊かな水とともに落ちてきていると表現している。ここから流れてくる水は山のふもとにある田畑へと流れ、作物を育て、さらに人々の暮らしを支える生活の糧となっている。この水はこの山に棲むヌシによって維持されていると考えられている。
 儀式の列はその滝の真横にあるわずかな開いた空間へと入っていく。滝の裏にぽっかりと開けた空間、洞窟があった。すぐそばを水が大量に流れているために、洞窟はすっかり湿気が漂ってしまっている。その恩恵を受けた苔が洞窟の冷たい岩肌を隠すように新緑深く生えていた。その中を男たちは足を滑らさないように、用心しながらゆっくりゆっくり歩いていく。しばらく行くと大きく開けた半球の空間が姿を現した。その中央には古い木造の建物が建てられている。それまで縦横無尽に洞窟を覆っていた苔は、何故かその建物を避けて生えている。その建物を里の者は社と呼ぶ。社は山のヌシと里に住む者たちを繋ぐ存在。祭りの際に、里の民はこの社に集まり巫女の力によってヌシの意思を伺うことができるのだ。社の前まで来ると、しばらく静かにしていた父親がまた口を開いた。

「レン、この先はワシら男集も入れん。お前一人で中へ入るのだ」

 神輿が下ろされ、少女は何も履いてない素足ですうっと淀むことなく立ち上がった。その姿からは恐れや迷いは一切感じ取れない。男どもはその姿に少なからず感心していた。これから先は何が起こるかはわからない。これまでも幾人も社に入っていったが、社に入ったものは誰一人として戻ってきたことはないのだ。社から流れてくる空気の流れは重く、冷たい。空気と一緒に流れてくる大きな存在感に男どもはすっかり気圧されていた。

「下手をして、ヌシ様の機嫌を損ねることのないよう、しっかり役目を務めるのだぞ……」

 立っているのがやっとという感じであった父親はそこまで話すと震える足で下がっていく。その姿を布越しで黙って見ていた少女は何も感ずることはなかったかのように、社に身体を向けて歩き出した。

 ヒタ…、ヒタ…。

 しっかりとした足並みで歩く少女。月の光も入らない暗い洞窟でおぼろげに社はたたずんでいる。松明に照らされた社はよく見ないと気がつかないほどの、松明の明かりとは違う不思議な光を発している。その青い光すら冷たさに支配されているかのような静けさ。辺りは松明が燃える音、雫が落ちる音、そして少女の歩く素足の音で支配されている。

 ぎい。

 社の柱に手をかけて、社の境内に上がる。
 ――柱が乾いている。少女は社が湿気に包まれていないことに気がついた。境内には少女が歩いた部分のみ湿気で濡れていた。この社は大昔に建てられたものだ。当然、周りの湿気によって社が傷んでいてもおかしくはないはず。だが、その様子もないどころか社全体は湿気を帯びていない。

 カラ……。

 娘が戸を開ける。途端に中の暗闇から黒い塊が娘に向かってぶつかってきた。

 ビョウッ。

 娘の身体にぶつかってきた風が、そのまま社の外へと吹き抜けていく。後ろで下がっていた男どもの2、3本の松明の火が消されていく。後ろで何人か男どもがひいと情けない声をあげた。娘はあまりよく見えない布越しからじっと社の奥を見つめる。何かがいる。

「……どうした? 早く中へ入ってこい」

 深く低い男の声が社の中から聞こえてくる。娘は先ほどの風で少し怯みはしたが、何もなかったようにそのまま中へ入っていく。
 暗い……。社の中は暗闇と静けさに包まれていた。そして何より外の洞窟よりも中の社のほうが、空気が冷たい。娘は社の中に入ると開けた戸を閉め、しずしずと座り、頭を垂れた。

「ようやくのお出ましか。正直言うと、待ちくたびれた」

 社の奥で男の声がすると一本の燈台に火が灯る。

「お前が、よこされた娘だな? 顔をあげるがいい」

 娘は顔を上げると、布越しにハッと息を飲む。声がする向こうを見ると、そこには一人の男が座っていた。
 見た感じでは歳は二十を超えているように見える。やや細身ながらに筋肉質の体躯を持ち、どっしりと胡座をかいて座っている。髪は黒髪にしてやや長髪。その相貌は眉目秀麗。そしてハッキリと開いたその瞳はこの国では珍しい碧眼だった。
対峙しているのは、この山をずっと守りつづけている山のヌシであるはずだった。里の者は誰もヌシを見たことがない。しかしそれは必ずいると言われ、今日まで信じられてきた。里の者は誰も見たことがないだけに、姿は異形のものでないかなど、憶測が憶測を呼ぶ存在であった。
 しかし、目の前にいる山のヌシの姿は人の形をしている。娘もまた異形の姿をしているのでは、と密かに想像していたので、あまりの意外さに驚いてしまったのだ。

「ふむ。このヌシの姿を見て驚いているのか? まぁお前たちは見たこともないだろう。その様子では期待を裏切ってしまったようだな」

 ヌシと呼ばれている男はさも愉快そうにくつくつと笑った。娘はそのあまりにも人間らしいヌシを目の当たりにして呆然としている。

「ここにきて座れ。」

 ヌシは自分の目の前にある床を拳でコンコンと叩く。娘は言われた通り、ヌシの前に来て座った。

「さて、娘。お前は選ばれてここにきた。何故、ここに来させられたかは聞いているか?」

 娘はうつむき加減で首を横に振った。

「そうか。ならば、教えてやろう。お前は俺の嫁として選ばれたのだ」

 男は傍に置いてあった瓢箪の栓を手に取り、着物の懐から白い盃を取り出した。そして、盃に瓢箪の中身を注ぎ始めた。次第に社の中が芳しい香りに包まれ始める。それは甘く優しく妖しく香っている。

「これは祝いの酒だ」

 ヌシをそう言うと盃に一口つけた。そして、娘にその盃を手渡す。

「飲むがいい。これはお前のために用意した祝いの酒、契りの酒だ。これを飲み俺の妻となれ」

 手渡された皿を受け取り娘はぼうっと盃を見つめる。芳しく香るその酒は黄色く淡く光ってみえる。匂いを嗅いだその時、娘はその酒の虜となった。霞みがかった頭の中でぼんやり思った。
 ――これを飲めばもう後戻りはできない。それでもいい。この先は自分には何もない。あの子さえ救えれば……。
 娘は顔にかかっていた薄布をあげ、盃に口をつける。
 ――ん…。
 ヌシはその様子に目を細めた。


 一方、男たちは娘を無事送り届け、その帰路に着こうとしていた。娘を送った父親は肩を下げ、うつむき加減でとぼとぼと歩いている。

「おい、ありゃなんだ?」

 先頭を歩いていた男が異変に気がついた。ふもとの木の切れ間から人が一人走ってくるのが見えたのだ。

「人が走ってくるぞ」

 男どもの中からどよめきが起こった。行事は滞りなく終わったはずだ、今さら一体…。そして、徐々に近づいてくる姿を見て男どもはさらに騒がしくなった。

「おい、走ってくるのは女だぞ」
「あれは……レンじゃないか!」

 レンという名前を聞いて驚いたのは娘の父親だった。今さっき、社に送った娘が逆方向から走ってくるのだから驚かないわけがない。父親は慌てて、先頭に出る。

「レン!? レンじゃないか! お前どうして……?」
「父様っ!」

 大分走ってきたのか、娘は息を切らしている。父親は驚きのあまり気が動転しそうになった。娘は逃げてきたのか? いや里から走ってきたように見える。では送ってきた娘は一体?

「レン、一体どういうことなんだ!」
「ハァハァ…父様…、オウマが……オウマが……!!」
「オウマだって!? あれがどうしたっていうんだ? まさか!?」
「ハァ…あの神輿に乗ってたの、オウマなの……」
「なんだって!?」

 それを聞いた父親はもちろん男集に驚愕の表情が浮かび上がった。先ほどの困惑のざわめきが、恐怖のざわめきに取って変わる。

 ――なんてことだ。ヌシ様がお怒りになるぞ!
 ――ああ…っ、お終いだ! この里はもうダメだ!

 頭を抱える人、地面にうずくまる人、儀式の列は行きの時とはまるで逆の阿鼻叫喚に包まれた。大騒ぎをしている大人を目にしていたレンは胸が締め付けられる思いだった。やはりオウマが代わりに行くなんて許してはいけなかった。
 父親はレンの肩をガッシリ掴んで、激しく揺さぶる。父親の相貌には責任をまっとうできなかった絶望の涙が流れていた。

「おっ、おまえはなんて……、なんてことをしてくれたんだッ! これでは……里が滅ぼされるぞ!」
「私が……、私が行って来る…! 社に行って、オウマを取り返してくる!」
「待て! レン!」
「父様、離してッ!」

 肩を掴んでいた父親を振り切って、レンはさらに山の奥へと走った。途中、父親が何か叫んでいたが構わず走った。

 ――私のせいだ。私のせいでこんなことに…!

 息が苦しい。だが、レンはそれ以上に胸が苦しかった。後悔に押しつぶされそうになる。だが、幼馴染を助けるために涙がこぼれるのも構わず走る。

 ――オウマ、やっぱりダメだよ…。そんなことしたら、里が…。
 ――レンは行きたくないんだろ? 俺はレンが二度と帰ってこれなくなるなんて嫌だ!

 レンは苦しい息の中でオウマの言葉がよみがえってくる。
 オウマ。里の外れに住んでいる明るくて活発でまっすぐな心の男の子。年はレンと同じ十六ぐらい。ハッキリと開いた瞳で女の子のような顔をしていた。身体は華奢な子だが活発でいつも山にいるので、大人たちも顔負けなほどの物知りだった。レンはよくオウマから色々な遊びを教えてもらった。いつも一人でいて、親が両方ともいないオウマのことをいつも気にかけていたレンはよくオウマと幼い頃から遊んでいた。
 ――私が不用意に話したから…。


 レンは息を切らしながら中腹の大滝に辿り付いた。これ以上はもう走れない。よろめきながらレンは滝の裏側へと入っていく。いつもは静かな滝の裏の洞窟から、風がどろどろと音とともに流れ出ていくのを身体で感じる。いつもと違う。レンの頭の中でヌシの怒りという言葉がちらと浮かんだが、今はオウマの身を案じる気持ちのほうが勝っていた。奥へ奥へと歩いていくと徐々にどろどろと聞こえていた音が何か動物の咆哮に近いということに気がついた。徐々に風が強くなってくる。この洞窟は貫通していない。奥にある社までで終わっている洞窟だ。風が抜けるような穴も存在していない。洞窟に風は入ってくることはあっても、出て行くことはないはず。昔から風が出口に向かって吹くということは社にヌシがいる証とされている。ここまで強く風が吹くということはやはり、ヌシは……。レンは怯む自分の頬を叩いた。オウマを助けるまで帰れない。そう彼女は決意したのだ。
社まで辿り付くころには流れていた風はかなりの強さになっていた。壁に勢いよく叩きつけられ擦られた風が不気味な音を上げて抜けていく。それはまるで獣の咆哮だった。

 ――ぁぁああああああああーーー!

 社の中から叫び声が聞こえる。馴染みのある声。レンは覚悟を決めて社の戸を開けた。
 中に入ると風の塊が何重にもなって、レンに襲いかかってきた。思わず両手で顔をかばうようにすると、その隙間からもがき苦しむ女物の着物を着た少年が見えた。

「がああああう、ぐっ、がぁっ、ぐあああああああっ!」
「オウマ!」

 レンは近寄ろうとするが、オウマを中心に吹き荒ぶ風のせいでなかなか歩み寄れない。

「やってくれたな……」

 転がるオウマのさらに奥から声がする。この荒ぶる風の中からはっきりと声が聞こえる。

「お前が本物の娘だな?」

 突然の声に驚き、レンは身体を堅くして身構える。

「匂いで分かる。この着物の匂いと同じだ。これと清めの香のせいで中身が男だったなどとは気がつかなかった」

 目の前に現れた長身の碧眼の男にレンは驚いて目を見開いて呆然と立っていた。男は愉快そうに笑っている。

「ほう、確かにいい娘だな。巫女が選ぶだけはある。悔しいな、お前もなかなかいいじゃないか」

 この風の中で平然と男は立って笑っている。この男がヌシだと、レンはすぐにわかった。白目を剥いてもがき苦しむオウマ。風が断続的に周囲を凪いで社全体を軋ませる。オウマの声を聞いて我に返ったレンは凛とした態度でヌシの正面に立つ。

「オウマに何をしたの」
「なかなか気が強い娘だな。いい嫁になりそうだ」
「ふざけないで、答えて」
「ふふ、この俺と対峙してこの負けん気。本当にいい娘だ」

 レンはじっとヌシを睨んでいる。相手は山を治めるヌシ、しかしレンはオウマを助けたいという思いが先立ち、ヌシに対する恐怖心を忘れていた。

「そいつは俺と契りを交わしたのだ。だから俺にふさわしい妻になるための変化といったところだな」

 睨むレンを飄々とした表情で答えるヌシ。

「オウマを返して」
「それは応じられないな。お前達は山のヌシである俺を騙したのだからな。今更、本物の娘を差し出しても、もはやもらう気はない」

 レンは肌が急に粟立つのを全身で感じた。ヌシの表情はさっきと変わらない笑みをたたえているが、凄みが浮きあがっている。それだけの変化だが、不気味な恐怖心が湧き上がってくる。背筋に雷のような寒気が走り、腑物が一気に冷え、足が震える。いつの間にかレンは立っているのもやっとの状態にまで追い込まれていた。

「それに、俺はこれが気に入った」

 いまだもがき苦しむ少年の傍へと歩み寄り、額を優しく撫でると、自分が羽織っていた着物をかけ、そのまま軽々と抱き上げる。

「里の者に伝えるがいい。嫁は確かにいただいた、とな」

 そう言うとヌシはふっと後ろに飛び退いた。

「ちょっと……待って!」

 レンは歩み寄ろうとしたがさっきの気迫で足が竦んでしまっていた。動きたがらない足をムリヤリ動かそうとするが、言う事を聞かず、そのままペタンと座り込んでしまった。ヌシは少年を抱いたまま、背後の壁にできた波紋の中へと消えていった。

 ピチャン。

「オウマ……」

 レンは一人取り残された。水滴が落ちる音が反響している。
 周りを凪いでいた風はいつのまにか止んで、社は再び静寂と暗闇へと戻った。
 少女の頬から涙が伝って落ちた。

 

 

 

 

〜つづく〜

 

 

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