それはここではない、どこかの話。 いまだ世界は緑に包まれ、まだ豊かさが溢れている世界の話。 その世界はまだ神が生きていた。
――お山のヌシ様が娘一人をご所望だ。 里から少し離れた山の入り口のあたりから炎によって橙に灯る光で築かれていく道が見える。それは生贄の道。
「レン許しておくれ……山のヌシ様は絶対なのじゃ……わしら里の者はヌシ様の恩恵がなければすぐに滅びてしまう。ヌシ様あってこその我らなのじゃ……」 男はすまない、すまないとしきりに口にする。しかし、レンと呼ばれた娘はその言葉が聞こえていないのか、ただ黙って神輿の上に座しているばかり。しかし親である男は見開いた目をただまっすぐに向けて、娘の様子にかまうことなく、謝るばかり。その様子を見ていた男たちの視線から憐れみの色がちらと見える。 ――かわいそうに、器量のいい娘だったのに。 ひそひそとどこからともなく漏れる男どもの会話は娘の耳にも届いていた。偽善に満ち満ちた会話、所詮は他人事であろう。その会話を受けてもなお娘は振り向くことなく凛とした態度で静かに座している。 「レン、この先はワシら男集も入れん。お前一人で中へ入るのだ」 神輿が下ろされ、少女は何も履いてない素足ですうっと淀むことなく立ち上がった。その姿からは恐れや迷いは一切感じ取れない。男どもはその姿に少なからず感心していた。これから先は何が起こるかはわからない。これまでも幾人も社に入っていったが、社に入ったものは誰一人として戻ってきたことはないのだ。社から流れてくる空気の流れは重く、冷たい。空気と一緒に流れてくる大きな存在感に男どもはすっかり気圧されていた。 「下手をして、ヌシ様の機嫌を損ねることのないよう、しっかり役目を務めるのだぞ……」 立っているのがやっとという感じであった父親はそこまで話すと震える足で下がっていく。その姿を布越しで黙って見ていた少女は何も感ずることはなかったかのように、社に身体を向けて歩き出した。 ヒタ…、ヒタ…。 しっかりとした足並みで歩く少女。月の光も入らない暗い洞窟でおぼろげに社はたたずんでいる。松明に照らされた社はよく見ないと気がつかないほどの、松明の明かりとは違う不思議な光を発している。その青い光すら冷たさに支配されているかのような静けさ。辺りは松明が燃える音、雫が落ちる音、そして少女の歩く素足の音で支配されている。 ぎい。 社の柱に手をかけて、社の境内に上がる。 カラ……。 娘が戸を開ける。途端に中の暗闇から黒い塊が娘に向かってぶつかってきた。 ビョウッ。 娘の身体にぶつかってきた風が、そのまま社の外へと吹き抜けていく。後ろで下がっていた男どもの2、3本の松明の火が消されていく。後ろで何人か男どもがひいと情けない声をあげた。娘はあまりよく見えない布越しからじっと社の奥を見つめる。何かがいる。 「……どうした? 早く中へ入ってこい」 深く低い男の声が社の中から聞こえてくる。娘は先ほどの風で少し怯みはしたが、何もなかったようにそのまま中へ入っていく。 「ようやくのお出ましか。正直言うと、待ちくたびれた」 社の奥で男の声がすると一本の燈台に火が灯る。 「お前が、よこされた娘だな? 顔をあげるがいい」 娘は顔を上げると、布越しにハッと息を飲む。声がする向こうを見ると、そこには一人の男が座っていた。 「ふむ。このヌシの姿を見て驚いているのか? まぁお前たちは見たこともないだろう。その様子では期待を裏切ってしまったようだな」 ヌシと呼ばれている男はさも愉快そうにくつくつと笑った。娘はそのあまりにも人間らしいヌシを目の当たりにして呆然としている。 「ここにきて座れ。」 ヌシは自分の目の前にある床を拳でコンコンと叩く。娘は言われた通り、ヌシの前に来て座った。 「さて、娘。お前は選ばれてここにきた。何故、ここに来させられたかは聞いているか?」 娘はうつむき加減で首を横に振った。 「そうか。ならば、教えてやろう。お前は俺の嫁として選ばれたのだ」 男は傍に置いてあった瓢箪の栓を手に取り、着物の懐から白い盃を取り出した。そして、盃に瓢箪の中身を注ぎ始めた。次第に社の中が芳しい香りに包まれ始める。それは甘く優しく妖しく香っている。 「これは祝いの酒だ」 ヌシをそう言うと盃に一口つけた。そして、娘にその盃を手渡す。 「飲むがいい。これはお前のために用意した祝いの酒、契りの酒だ。これを飲み俺の妻となれ」 手渡された皿を受け取り娘はぼうっと盃を見つめる。芳しく香るその酒は黄色く淡く光ってみえる。匂いを嗅いだその時、娘はその酒の虜となった。霞みがかった頭の中でぼんやり思った。
「おい、ありゃなんだ?」 先頭を歩いていた男が異変に気がついた。ふもとの木の切れ間から人が一人走ってくるのが見えたのだ。 「人が走ってくるぞ」 男どもの中からどよめきが起こった。行事は滞りなく終わったはずだ、今さら一体…。そして、徐々に近づいてくる姿を見て男どもはさらに騒がしくなった。 「おい、走ってくるのは女だぞ」 レンという名前を聞いて驚いたのは娘の父親だった。今さっき、社に送った娘が逆方向から走ってくるのだから驚かないわけがない。父親は慌てて、先頭に出る。 「レン!? レンじゃないか! お前どうして……?」 大分走ってきたのか、娘は息を切らしている。父親は驚きのあまり気が動転しそうになった。娘は逃げてきたのか? いや里から走ってきたように見える。では送ってきた娘は一体? 「レン、一体どういうことなんだ!」 それを聞いた父親はもちろん男集に驚愕の表情が浮かび上がった。先ほどの困惑のざわめきが、恐怖のざわめきに取って変わる。 ――なんてことだ。ヌシ様がお怒りになるぞ! 頭を抱える人、地面にうずくまる人、儀式の列は行きの時とはまるで逆の阿鼻叫喚に包まれた。大騒ぎをしている大人を目にしていたレンは胸が締め付けられる思いだった。やはりオウマが代わりに行くなんて許してはいけなかった。 「おっ、おまえはなんて……、なんてことをしてくれたんだッ! これでは……里が滅ぼされるぞ!」 肩を掴んでいた父親を振り切って、レンはさらに山の奥へと走った。途中、父親が何か叫んでいたが構わず走った。 ――私のせいだ。私のせいでこんなことに…! 息が苦しい。だが、レンはそれ以上に胸が苦しかった。後悔に押しつぶされそうになる。だが、幼馴染を助けるために涙がこぼれるのも構わず走る。 ――オウマ、やっぱりダメだよ…。そんなことしたら、里が…。 レンは苦しい息の中でオウマの言葉がよみがえってくる。
――ぁぁああああああああーーー! 社の中から叫び声が聞こえる。馴染みのある声。レンは覚悟を決めて社の戸を開けた。 「がああああう、ぐっ、がぁっ、ぐあああああああっ!」 レンは近寄ろうとするが、オウマを中心に吹き荒ぶ風のせいでなかなか歩み寄れない。 「やってくれたな……」 転がるオウマのさらに奥から声がする。この荒ぶる風の中からはっきりと声が聞こえる。 「お前が本物の娘だな?」 突然の声に驚き、レンは身体を堅くして身構える。 「匂いで分かる。この着物の匂いと同じだ。これと清めの香のせいで中身が男だったなどとは気がつかなかった」 目の前に現れた長身の碧眼の男にレンは驚いて目を見開いて呆然と立っていた。男は愉快そうに笑っている。 「ほう、確かにいい娘だな。巫女が選ぶだけはある。悔しいな、お前もなかなかいいじゃないか」 この風の中で平然と男は立って笑っている。この男がヌシだと、レンはすぐにわかった。白目を剥いてもがき苦しむオウマ。風が断続的に周囲を凪いで社全体を軋ませる。オウマの声を聞いて我に返ったレンは凛とした態度でヌシの正面に立つ。 「オウマに何をしたの」 レンはじっとヌシを睨んでいる。相手は山を治めるヌシ、しかしレンはオウマを助けたいという思いが先立ち、ヌシに対する恐怖心を忘れていた。 「そいつは俺と契りを交わしたのだ。だから俺にふさわしい妻になるための変化といったところだな」 睨むレンを飄々とした表情で答えるヌシ。 「オウマを返して」 レンは肌が急に粟立つのを全身で感じた。ヌシの表情はさっきと変わらない笑みをたたえているが、凄みが浮きあがっている。それだけの変化だが、不気味な恐怖心が湧き上がってくる。背筋に雷のような寒気が走り、腑物が一気に冷え、足が震える。いつの間にかレンは立っているのもやっとの状態にまで追い込まれていた。 「それに、俺はこれが気に入った」 いまだもがき苦しむ少年の傍へと歩み寄り、額を優しく撫でると、自分が羽織っていた着物をかけ、そのまま軽々と抱き上げる。 「里の者に伝えるがいい。嫁は確かにいただいた、とな」 そう言うとヌシはふっと後ろに飛び退いた。 「ちょっと……待って!」 レンは歩み寄ろうとしたがさっきの気迫で足が竦んでしまっていた。動きたがらない足をムリヤリ動かそうとするが、言う事を聞かず、そのままペタンと座り込んでしまった。ヌシは少年を抱いたまま、背後の壁にできた波紋の中へと消えていった。 ピチャン。 「オウマ……」 レンは一人取り残された。水滴が落ちる音が反響している。
〜つづく〜
|
作品がよかった、面白かったと感じてくださった方。
よろしければ上のバナーを押してくださると嬉しいです。(コメントも付けられます)
シリーズ物の作品のコメントの場合はタイトルと何話目かを付けていただけるとお返事しやすいです。