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「ごめんください」

 顔を洗ったあと、何もすることがないオウマは縁側でぼうっと座っていた。
 縁側の先は、少しばかりの庭と呼べる程度の原っぱがあり、その先は崖になっている。
 オウマは先ほど辺りを歩いてみて気がついた。この棲家、里からさほど遠くはない。というよりも崖から里を見下ろせるのだ。実は物凄く近い。
 オウマは幼い頃からこのヌシの棲む山を営みの糧としていた。しかし、オウマはこのような場所があることは知らなかった。崖で囲まれているわけでもなくただ森で囲まれているだけなので、来ようと思ったら容易に入り込めそうではあるが、何やら人を寄せ付けさせない術でも使われているのだろうか。

「ごめんください」

 蛇は、部屋に入ったきりで出てくる様子はない。まだ名前を考えているのかもしれない。カヤは井戸で洗濯物を洗っているみたいだ。誰もオウマをかまうつもりはないようなので、オウマはやることなくただ座っているしかなかった。

 ――なにしてんだろ、俺。

 オウマはそのまま、どたっと大の字になって倒れた。空を見ると屋根の端っこから光がこぼれてくる。相変わらず日差しは強い。大体、太陽は真上に来ようとしている。もうすぐお昼。少し眠くなってきた。うとうとと目蓋が降りてくる。

「ごめんください」
「わあっ!」

 目蓋が閉じようとしたその時、目の前にいきなり男の顔が近距離で現れた。

「どうも、すみません。さっきから声かけているのに気がついてもらえなかったので、つい」

 オウマが身体を起こすと、男はニコニコと微笑みながら丁寧な言葉遣いで声をかけてきた。中背中肉で中年の男、歳は三十ぐらいに見える。粗末な着物を着た男の腰のあたりから、茶色い尻尾がゆったりと動いている。――ん? 尻尾??

「蛇さんは、いらっしゃいますか?」

 そう言うと男は家の中を見回す。オウマは何か言おうと思ったが、家の勝手がわからないので、なんて言ったらいいのかわからない。

「えっと…」
「あっ、ヨヘエさん!」

 オウマの背後から声がしたかと思うと、カヤが洗った洗濯物をもって縁側に現れた。先ほどまでのむすっとした表情とは打って変って、とても可愛らしい笑顔を男に見せている。

「ああ、カヤちゃん。蛇さんはいますか?」
「ヌシ様ならお部屋にいますよ。呼んできますからちょっと待ってくださいね」

 そう言うとカヤは洗濯物をオウマの横に置いて、蛇の部屋へトタトタと駆け足で入っていく。カヤが部屋に入ってすぐに蛇の声が聞こえ、部屋からカヤと一緒に蛇が出てきた。

「いらっしゃい、ヨヘエ」
「ああ、蛇さん。そろそろ切れる頃だと思ってね。塩を持ってきましたよ」
「それはありがたい。いつもすまないな」
「いえいえ、それで折り入ってお願いがあるんですが…」

 蛇とヨヘエは二人で何かを話している。オウマはずっとヨヘエの尻尾を見つめていた。時折、ついっと動くそれはまさしく尻尾。尻尾のある人なんて見たことがないオウマは目の色を輝かせて尻尾を飽きもせず見ている。触ってみたいという誘惑に負け、おもわず尻尾に手を伸ばしてしまう。

「尻尾は珍しいですか?」
「あ……」

 気がつくとヨヘエが微笑みを湛えてオウマのほうを向いている。オウマは触りかけた手を引っ込めるとパッと視線をヨヘエの尻尾から外す。ヨヘエの見た目は人の形を成しているが、尻尾が生えているだけにオウマは少し警戒心を抱いていた。しかし、尻尾に対する興味が強いせいか、ちらちらと尻尾に視線を送る。

「ヨヘエは狸の化身なのさ」

 こんな狸見たことない……。オウマは目を丸くしてヨヘエを見つめた。オウマは生まれて初めて二本足で歩く狸と出会っただけに驚きを隠せない。ポカンと見つめるオウマに、ヨヘエは照れくさそうに髪の薄い頭をぺちっと叩く。

「ははっ、そうまじまじと見られると恥ずかしいですな」
「ヨヘエ、そいつは俺の嫁だ」
「ほおぉ、こらまた別嬪さんをもらってきなすったのですなぁ」

 ヨヘエは手に顎を当ててしげしげとオウマを眺める。オウマは少し複雑な気分になった。確かに身体は女のそれとなったが、まだ女性として見られるには抵抗がある。つい昨日まで男だったので順応するにはまだ無理があった。落ち着かないオウマはふと背後を向くと不機嫌そうなカヤがそこにいた。オウマの視線に気がつくとカヤは途端にそっぽを向く。

「お名前はなんと言うのですか?」
「えっと…」

 ヨヘエの問いにオウマは言葉を窮する。男の名前を捨てろと言った蛇がいる手前、男の名前など言えない。なんて言ったらいいのか…。

「カヤ、ちょっとお遣いを頼んでいいか?」
「なんでしょうか?」
「ヨヘエの娘が病に臥せっていてな、仁丹をこしらえてやりたいのだが…」

 助け舟を出すように蛇がカヤに話し掛ける。ヨヘエがすみませんねぇ、と会話の矛先を変えたことにオウマはほっとした。が、

「困ったことに精が少し足りん。カヤ、ちょっと玄武洞に行って精を採ってきてくれないか?」
「わかりました」
「あとついでに、それも連れていけ」

 蛇はオウマを指さす。

「「えっ!?」」

 同時に発したオウマとカヤの声が重なった。

「で、でもヌシ様っ、玄武洞なら私だけでも行けますっ」
「別にお前が力不足だからというわけじゃない。そいつは精が足りてない状態だ。連れていってやってくれ」

 カヤは断ろうとするが、蛇はやんわりとした笑顔でそれを抑える。蛇の言うことは絶対なのかカヤはグッと言葉を出すのをこらえる。

「わかりました…」

 カヤは搾り出すような掠れた声で返事をした。よっぽど不服なのだろうか、カヤはオウマをジッと睨むと、

「フンッ」

 またもやそっぽを向いて、家の奥へと消えていった。

「やっぱりまだまだ子供だな」

 その様子を見ていた蛇は苦笑混じりに言う。

「いえいえ、カヤちゃんはまだ幼いのにしっかりしてますよ」
「役目が役目だからな…」

 ヨヘエは人の良い笑みでそれに応じる。ふと蛇がオウマのほうを向く。

「お前はちゃんとカヤの言うことを聞くように。迷子なんてなると厄介だからな」

 蛇はにやりと笑った。
 ――俺は俺で子供扱いかよ。
 オウマは、勝手が分かっている上によく出来たカヤの比べたら自分は大したことができないのは分かっているものの、それでもその扱いに納得がいかなかった。

「まぁ、気をつけて行ってくるんだ」

 不満げに睨むオウマに蛇はニカッと笑って頭をポンポン叩いた。

「生まれたばかりの世界は広いぞ」

 


 お昼を少し過ぎて、オウマとカヤは家を出た。
 金槌と瓢箪を持ったカヤが、先行して歩いていく。
 振り向きもせず、ズンズンと歩いていくカヤの後ろをついていくオウマは、山に対して違和感を抱いていた。
 ――山の様子が違う。具体的な違いは見出せないものの、オウマは本能的に自分の歩き慣れた山とは微妙に何かが違うことを感じていた。自分が今歩いている場所は分かる。しかし、気をつけていないとオウマは歩き慣れた山で迷ってしまいそうな危うい感覚を抱いていた。
 言い知れない恐怖感で心がいっぱいになり、地面を向いていたオウマだったが、ふと顔を上げると、いつのまにか前を歩いていたカヤとの距離が大きく離れていることに気がついた。

「なぁ、もうちょっとゆっくり歩…」

 カヤに声かけるが、まったく振り向く素振りを見せない。きっとカヤはオウマがつまづいて転んでも見向きしないだろう、オウマはそう感じた。
 無愛想なカヤに対して、オウマは胸のうちに不満を抱きながらも距離を詰めようと走り寄った。

「………」

 ずっと俯き加減で黙々と歩いているカヤ。オウマが顔を覗き込んでも反応しない。口先で何か呟いているが、あまりに声が小さすぎてオウマには聞こえない。反応しないことをいいことにオウマはじっとカヤを横から見つめている。

 ――ヌシ様のバカ。

 カヤはふと横からの視線に気がつき、視線の先に顔を向ける。そして、すぐそばにオウマの好奇心で見開かれた瞳とぶつかった。

「………」

 しばらく、二人は見つめあっている。

「……ッ! なんですかっ?」

 オウマの瞳に吸い込まれそうになったカヤだが、見惚れている自分に気がつき、恥ずかしさがともなってきつく声を出す。顔がまた赤い。

「あ……、いや、大丈夫かなー? と、思ってさ。アハハ…」
「考え事をしているだけですッ!」

 少し居心地が悪いオウマは誤魔化すようにへらへらと笑うが、またもやカヤはぴしゃりと言い捨てる。そして、フンとそっぽを向くとさっきにも増して早い速度で歩き始めた。

「……むう」

 ――全然、心を開いてくれないなぁ。

 


 しばらく二人は黙って歩いた。
 やがて森が切れ、地面に突き刺さった二本の赤い巨大な杭が目の前に現れた。頭上には切り立った壁のような崖。そしてその下にあるオウマ達がいる崖下にはちょっとした程度の草原が広がっている。あちこちに大きな岩が土から生えていて、それはまるで天に向かって突き上げるように鋭く立っていた。その二本の巨大な杭より向こうは青白い霧のようなものに包まれていて、向こう側の様子は伺い知ることはできない。

「着きました」

 そういうとカヤは二本の杭の間を通っていく。その様子にオウマは首を傾げた。

 ――こんなとこあったっけ?

 蛇の棲家といい、ここといい、オウマは歩き慣れた山にこんなものがあることを訝しく感じた。位置的にここは蛇の棲家の真下ということになるが、これほど目立つものがあるのに里の者もオウマですらその存在を気がつかないということがあるだろうか。

 ――ここは一体…。

 森を歩いた感覚といい、オウマは何か妖しげな感覚を抱いていた。

 ガクッ。

「ッ!?」

 さらに奥へと行ってしまったカヤを追おうとしたオウマだが、足がもつれてその場に座ってしまった。身体が重い。歩いている時は気がつかなかったが、へたり込んだ途端に身体が思い出したかのように重い疲労が全身にのしかかってきた。
 ――…困ったな。カヤは杭より向こうに行ってしまって戻ってくる気配がない。赤い杭の目の前でへたり込んでしまったオウマはなんとか身体を動かそうとするが、下半身がまったく言う事を聞かない。仕方なく両手で這って足を引きずるようにして杭の元に寄ってもたれかかった。

「ハァ…ハァ……」

 ほんの些細なものだったが、今の体力が落ちた状態のオウマにとっては辛かった。自分の身体がいかに変化してしまっていたか、皮肉にも山によって思い知らされることとなってしまった。
 山から発せられる違和感に戸惑っていたせいか、自分の身体に対する違和感に気がつかなかった。元のオウマの体力なら造作もないはずの距離が、今の身体にはきつすぎたのだ。そしてそのことを疲労が溜まりきった身体になって、ようやくオウマは気がついた。この身体も何か違和感がある。まるで、自分の身体ではないような感覚。そして身体自身が疲れに対して戸惑っているようにも感じられた。
 ぼやけた頭のなかでオウマはあれこれと考えるが、いずれも霞みの中へと消えていく。そして、いつしか暗闇の淵にいた。

 


「………あ」
「気がついたか」

 目蓋を開けるとそこには跪いている蛇がいた。オウマはまだ霞んでいる視界の中で蛇を見ていた。神妙な表情で蛇はオウマの額に手を当てた。

「ふむ。ここは圏外だが多少の精は受け取れているようだな」
「………?」
「すまなかったな。お前は変化したせいで精が足りなくなっていたんだよ。わかっていたのだが、まさかここまで具合が悪かったとはな」

 ――まだ、中は毒かもしれんな。蛇が何か呟いている。オウマも何か言おうとするが、声を出そうとしても弱く息が漏れるにすぎなかった。

「じっとしろ。いいか、俺の言う通りにするんだ」

 オウマは目蓋が落ちそうになるのに耐えながら頷く。

「いい子だ。まず、ゆっくり息を吸え、一気に吸うと毒だからな」

 言われた通り、できるかぎりゆっくり息を吸い込む。ほどよく冷たい空気が喉を通って、肺に送り込まれる。

「吸いきったな? そこで息をとめろ」
「……うっ」

 息をとめた途端に冷たかった空気が一気に熱を発し始める。肺で止まっているはずの空気は腹へと落ちてオウマは臍のあたりで一気に空気が燃え上がるのを感じた。蛇はオウマの臍のあたりに手を当てる。

「よし、ゆっくり息を吐け」

 ハァァァ…。

 熱をともなった空気が吐き出されていく。しかし、臍のあたりに微かな温かみがまだ残っている。蛇は手を離す。オウマは自分の腹をさする。外から触ってもやはり微かな温かみを感じる。

「それが、精だ。お前は生まれたてで本来必要な精が変化に使われたために不足していたのさ」

 蛇は立ち上がる。わずかだが身体が少し軽くなったようだ。

「俺が……、生まれたて…?」
「そうだ。あの酒は魂を変える力が宿っている。お前はあの酒の力によって生まれ変わった、というわけだ」
「そう……なのか」

 身体を起こそうとするがやはり下半身に力が入らない。蛇がオウマの肩を抑える。

「まだ駄目だ。お前は死にかけていたんだよ。先ほどのでは足りないはずだ。俺がここにいてやるからさっきの呼吸を繰り返しやるんだ」

 オウマは、ふと思った。
 ――この人はどうしてこんなに優しいのだろう。

 


「あっ、ヌシ様っ」

 オウマの身体の疲労がだいぶなくなり、やっと軽くなったころ、赤い杭の奥からカヤが姿を現した。

「ちゃんと精が貯まったようだな」
「はい。でも、どうしてヌシ様がここに…?」

 カヤが持っている瓢箪が淡い光を発している。中に精が詰まっているのだろうか。蛇は杭にもたれかかっているオウマに視線を向けた。

「…なあに、心配だっただけだ」

 オウマは、蛇が苦虫を潰したような表情をしたのを見た。もっとも蛇の表情が変わったのは、ほんの一瞬だけだったが。蛇の背後からカヤが不思議そうな表情でオウマを見ている。
 急にオウマは蛇に身体を掴まれて、そのまま抱き上げられる。

「わっ」
「じゃあ、帰るか」
「お、俺っ、ちゃんと歩けるよっ!」
「何言うか。生まれたてのくせに」

 恥ずかしくてオウマはバタバタと抱き上げられたまま暴れる。しかし、しれっとした顔で蛇は揺さぶられることなくしっかり歩いている。

「お、そうだ」

 突然、蛇が歩みを止めた。いきなり止まるものだから、オウマは落ちたくないがために蛇の首に手を回す。

「やっとお前の名前を決めたぞ」
「えっ」

 蛇は嬉しそうな顔でオウマを見る。それがあまりにも満面の笑みなのでオウマは引き気味になるが、手が蛇の首に回っているのであまり離れられない。

「お前の名前はだなぁ……」

 無邪気な笑みを見せる蛇の顔がオウマの碧眼の瞳に映る。

「耀(ヨウ)。お前の名前は耀だ」

 耀…。オウマは先ほどの腹に灯った熱とは違う、一気に燃え上がった炎のような熱が胸の中で爆発するのを感じた。蛇が不思議そうに覗き込んでくる。

「お前、何照れてるんだ?」
「……っ!」

 オウマ改め、耀は蛇の顔を見ていられなくなり、顔を背ける。最近、照れてばかりな気がする耀はなんとも納得がいかない気分になった。

「い、犬や猫みたいに名前をつけるなよ……」

 ぼそぼそと呟くが耀は蛇のほうを向いていないので、蛇には聞こえていない。

「さて、ヨヘエが待っている。早く帰るぞ」

 そう言うと蛇は再び歩みを始めた。耀はすっかり俯いてしまっている。
その後を黙ってついていくカヤ。蛇の背中を眺めていたが、やがて、

「いいなぁ…」

 蛇に抱えられている耀を見て、溜息混じりに呟いた。

 

 

 

〜つづく〜

 

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