まぶたをそっと開けると目の前には見知ったシミだらけの天井が広がっていた。 ――そうか、帰ってきたんだ。 ここは、耀がかつてオウマとして生活していた家だった。 ――二度と帰ってくることはないと思っていたけど・・・。 傷の疼きのように昨日の出来事が思い出されていく。耀は両手で顔を覆う。
「……オウマ?」 河原で見つめ合う二人。そこは耀が生贄として捧げられた社がある滝の前だった。 「レン…、なんでこんなところに……」 耀もまた驚きのあまりに呆然としている。こちらに向かってレンが駆け寄ってくる。そして、耀の前まで来ると耀の手を取ると小さく呟いた。 「……行こう」 一言呟くとレンは耀の手を取ったまま走り出す。耀は手を引かれるがままに連れて行かれてしまう。 「ヌシ様!? 姉さまが!!」 あまりに突然のことでカヤはうろたえて蛇のほうを見るが、蛇は耀を取り戻そうと動く気配がない。 「ヌシ様?」 怪訝に思ったカヤは蛇の顔を覗き込む。妻を奪われた男の表情とは思えないほどの凍った表情を蛇の顔は象っていた。 「帰るぞ」 歩みはじめる蛇。カヤは蛇を呼び止めようとするが、淀みなく歩く蛇の姿に何も言えなくなってしまった。すでに見えなくなってしまった耀が走っていった方を見つめているカヤ。その間にも蛇はどんどん歩いていく。どうしたらいいのかわからないカヤはしばらく思案するが、仕方なく蛇の元へと走っていった。
走るレンに手を掴まれた耀は転ばぬように必死で足を動かす。大声で話し掛けるがレンはまったく振り返ろうとはしない。少し赤くなった顔で苦しく呼吸をしながら懸命に走るレンの表情を見て、耀は何も言えなくなってしまった。 「はぁはぁ……」 レンは耀がかつて住んでいた家に駆け込むとすぐに戸を閉めた。二人は土間に入るとあがった息を整えるために膝に手をついて息をしている。 「ハァ…ハァ…、レンなんで…」 幾らか息が整ってきた耀はレンを見る。膝についたレンの手が小刻みに震えていることに気がついた。レンの顎を伝って流れる雫が土間の土を湿らせていく。 「……レン?」 レンは顔を上げると耀に涙が伝っている顔を向けた。嗚咽が止まらないのか、両手を口元に抑えて泣いている。 「生きているか、それすらわからなかったけど、ずっと社で待っていたんだよ……」 レンは耀の手を取った。 「こんな姿になってしまって…」 泣き止まないレンを抱きしめる耀。以前は耀のほうが少し背丈が高かったが、今ではレンとさほど変わらなくなった背丈になってしまったことを感じ、耀はまた自分が変わってしまったことにまた一つ気がついた。 「……オウマがいなくなった後、里のみんなはしばらく動揺してた…。いつ山のヌシ様のお怒りが来るかってビクビク怯えていた。でも、またしばらくするといつになってもヌシ様の怒りが訪れなかったから、里の様子も少しづつ元に戻っていったわ。私は、あの後父様にこっぴどく怒られたけど、オウマのことを考えればなんてことなかったよ」 耀は何か話したいと思うが言葉が見つからず、しばらく黙っていた。レンもうやはりもどかしそうに視線をあちらこちらに動かしている。 「オウマ、女の子になっちゃったね…」 姿のことを改めて言われて耀は顔を赤くする。 「ねぇ、元には戻れないの?」 唐突に放ったレンの言葉に耀は驚いた。 「……戻るって?」 耀は戻るという言葉を聞いた途端に何故か胸がざわざわと嫌な感覚を抱いた。 「ねぇオウマ、あなたもしかして…」 突然、二人の背後から声がする。振り返るとそこにはレンの母親が立っていた。 「お母様?」 レンの母親は耀にかまわずレンの手をとって連れていこうとする。レンはあわててその手を振り離す。 「お母様っ、待って! オウマが帰ってきたのっ!」 狐につままれたような顔で母親は家の中を見回す。耀はレンのすぐ横にいたが、一度たりとも視線が合うことがない。耀はその様子に背筋に冷たい水が通るような感覚が走る。まさか。 「どこのいるのよ? 誰もいないわよ?」 母親の言葉にレンは言葉を失った。 「オウマ…そんな…」 驚きに満ちた顔でレンは耀を見る。耀はそのまま立つ力を失ってしゃがみ込んでしまう。 ――それと、変化は姿だけじゃない。お前はもはや人間ではない。その姿だといまいち分からないだろうがな。まぁ、いずれ分かる時が来るだろう。 蛇の声が耀の頭に響く。 「さっ、いつまでもこんなところにいないで行きましょう」 レンは再び手を振り払おうとするが、母親は強引に手を引っ張って家の外へと出て行く。 「まったく、仕事を手伝わないでほっつき歩いて、一体何をしてるのよ」 家の外からレンの母親のお小言が聞こえてくる。 「それにこの家には近づいちゃいけないって、あれほど言っているでしょう。どうしてあなたはお父様の言葉にいつも逆らうの」 家の入り口にそっと隠れて見ていた耀にレンは目配せすると母親に連れられて帰っていった。 ――もう、ここには居場所はないんだ。
――蛇……俺は一体何になったんだ。 カラッ。 土間のほうで物音がしたので、寝巻きのまま出てみるとそこには何かを抱えたレンが立っていた。 「オウマ?」 レンは息を飲むような表情で耀を見つめている。そして、ゆっくりと耀のそばに歩みよってくると、耀を耀の目元をそっと指で優しくなぞった。 「ひどい顔。泣いてたの?」 寝起きのぼんやりとした頭でなんとなくそのまま受けていたが、その優しく指が耀の中で何かを呼び起こしたのか瞳から再び涙が出てくる。しかし激しく込み上げてくる何かに打たれ、正気に戻った耀は慌ててレンの手を払うと、袖で少し乱暴に目をゴシゴシと擦ると、パッと顔あげてパッチリした瞳をさらに大きくあけて笑ってみせた。 「大丈夫だ! 泣いてない!」 目の周りは赤く腫れてるわ、鼻をすすってるわで、明らかに泣いていたのは誰が見ても明らかだったが、耀は必死で取り繕った。レンを不安にさせないためというよりも、自分の気持ちをごまかすためだった。耀はレンを見ていると何故か自分がとても脆い女であることが浮き彫りになって見えるような気がしてならなかった。 「そう…、ならいいけど」 不安そうに覗き込むレン。必死になって顔を背ける耀。いつまでもこれではキリがないと感じたのか、レンは一息ため息をつくと腕に抱えていた物を開いてみせる。それは芋やゴボウなどの野菜だった。 「今起きたばかりかな。色々持ってきたから一緒にご飯食べよ?」
「オウマ、また里で一緒に暮らせるよね?」 帰り際に一言、レンはそう言い残していった。あれはレンの不安が形作った言葉だったのだろう。耀は何故かその返事ができなかった。 「……帰りたい」 ポツリと呟いた自分の言葉に、耀はハッと驚いた。 「風邪……、ひくぞ」 突然、言葉と共に、上着が肩にかけられた。振り向くとそこにはいなかったはずの蛇がいた。相変わらずムッツリとした顔をしている。蛇はよっこらせと呟くと耀の横に座った。 「様子を見にきたのか?」 耀は声を出して笑った。 「あいつ、泣きながら訴えるんだよ。そのうち夜泣きまでするじゃないかと気が気じゃない」 すっかり涼しくなった夜に鈴虫の声が響く。しばし二人とも口を開くことなく、虫の声だけが軽やかに響いていた。耀はぼんやりと月にかかった雲を眺めていた。ちらっと横目で蛇を見ると頬杖を膝に乗せてどこを見るとなくぼうっとしている。 「……なんだ?」 しかし、すぐに横目で見られているのに気がつかれて、蛇はじっと耀を睨むように見た。 「今日、里の人に会ったんだ。レンの母親」 蛇は面倒そうにパリパリと頭をかく。言いづらいのだろうか。 「前に言っただろう。お前はもう人間ではない、って」 蛇はムッツリとした顔で視線を外す。 「神?」 俯く耀を見て、蛇は苦いものを含んだような眉を寄せて渋い顔をした。 「お前は、きっと今の姿をその人間に見せたくないと思ったのだろう」 あの一件で察しはついたが、改めて聞かされて耀の中で悲しみに似た諦めの感情がこみ上げてくる。せっかく帰ってきたのに馴染めない家、里の人には見えない自分、里に見捨てられた自分、そして改めて知った女の自分。里に帰ってきてから色々なものが押し寄せてきて、心が粉々に砕かれそうだ。 「ごめん……、一人にさせてくれ……」 耀は顔を上げず震える声で言う。蛇がわかった、と返事すると耀は自分を抱きしめながら家の中へ戻っていった。 ――すまん。 口の中で蛇はそう呟いた。
「オウマ、今日は鮎持ってきたよ」 レンは耀のいた部屋を開けるが、そこには人影もなく家からは人の気配そのものが無くなっていた。 「そんな……オウマ……」 狭い家の中を探しつくしたレンは膝を着き、静かに涙を落として泣いた。
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