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 まぶたをそっと開けると目の前には見知ったシミだらけの天井が広がっていた。
 耀は少しカビ臭い匂いのする布団を押し退けてそっと身体を起こす。そしてまなこを擦りながら部屋を見回す。見慣れた箪笥、見慣れた灯台、見慣れた襖。どの風景もちゃんと覚えている。だけど、それでいてどこか懐かしさが欠けていて、不安になる感覚がじんわりと胸に響く。

 ――そうか、帰ってきたんだ。

 ここは、耀がかつてオウマとして生活していた家だった。
 耀は、里に帰ってきたのだ。
 再び、耀は布団の上に身体を大の字になって勢いよく倒した。
 ばふっと音がして布団から出たホコリが宙を舞う。日の光を浴びて宙をゆらゆらと漂うホコリはきらきらと光っていた。

 ――二度と帰ってくることはないと思っていたけど・・・。

 傷の疼きのように昨日の出来事が思い出されていく。耀は両手で顔を覆う。

 

 

 

「……オウマ?」

 河原で見つめ合う二人。そこは耀が生贄として捧げられた社がある滝の前だった。
 レンは驚きで見開かれた瞳で耀を見つめている。耀は蛇を見た。蛇は無言でレンを見つめている。まさか、洞窟にレンがいたことも承知していたということなのだろうか。しかし、蛇はそれ以上語ろうとはしない。

「レン…、なんでこんなところに……」

 耀もまた驚きのあまりに呆然としている。こちらに向かってレンが駆け寄ってくる。そして、耀の前まで来ると耀の手を取ると小さく呟いた。

「……行こう」

 一言呟くとレンは耀の手を取ったまま走り出す。耀は手を引かれるがままに連れて行かれてしまう。

「ヌシ様!? 姉さまが!!」
「……」

 あまりに突然のことでカヤはうろたえて蛇のほうを見るが、蛇は耀を取り戻そうと動く気配がない。

「ヌシ様?」

 怪訝に思ったカヤは蛇の顔を覗き込む。妻を奪われた男の表情とは思えないほどの凍った表情を蛇の顔は象っていた。

「帰るぞ」
「あっ、ヌシ様っ」

 歩みはじめる蛇。カヤは蛇を呼び止めようとするが、淀みなく歩く蛇の姿に何も言えなくなってしまった。すでに見えなくなってしまった耀が走っていった方を見つめているカヤ。その間にも蛇はどんどん歩いていく。どうしたらいいのかわからないカヤはしばらく思案するが、仕方なく蛇の元へと走っていった。

 


「レン、待ってくれよ!」

 走るレンに手を掴まれた耀は転ばぬように必死で足を動かす。大声で話し掛けるがレンはまったく振り返ろうとはしない。少し赤くなった顔で苦しく呼吸をしながら懸命に走るレンの表情を見て、耀は何も言えなくなってしまった。
 レンは里へ向かっているのだろうか。山を駆け下りていくうちに、木々の切れ目からしばらく見てなかった里の姿が見えてくる。男でないおろか、人間でもなくなった自分がどんな顔をして里の皆と会えばいいのだろうか、耀は憂鬱な気分で里を見つめた。

「はぁはぁ……」

 レンは耀がかつて住んでいた家に駆け込むとすぐに戸を閉めた。二人は土間に入るとあがった息を整えるために膝に手をついて息をしている。

「ハァ…ハァ…、レンなんで…」

 幾らか息が整ってきた耀はレンを見る。膝についたレンの手が小刻みに震えていることに気がついた。レンの顎を伝って流れる雫が土間の土を湿らせていく。

「……レン?」
「ずっと……ずっと待ってた」

 レンは顔を上げると耀に涙が伝っている顔を向けた。嗚咽が止まらないのか、両手を口元に抑えて泣いている。

「生きているか、それすらわからなかったけど、ずっと社で待っていたんだよ……」
「そうだったのか…」
「ずっと、ずっと謝りたくて…謝りたくて…」

 レンは耀の手を取った。

「こんな姿になってしまって…」
「……ごめん」

 泣き止まないレンを抱きしめる耀。以前は耀のほうが少し背丈が高かったが、今ではレンとさほど変わらなくなった背丈になってしまったことを感じ、耀はまた自分が変わってしまったことにまた一つ気がついた。
 耀はレンを居間に連れて行き、レンの気持ちが落ち着くまでずっと抱きしめていた。しばらくして落ち着いてきたレンは耀から身体を離すと、耀が連れ去られた後の自分のことや里のことをとつとつと話し始めた。

「……オウマがいなくなった後、里のみんなはしばらく動揺してた…。いつ山のヌシ様のお怒りが来るかってビクビク怯えていた。でも、またしばらくするといつになってもヌシ様の怒りが訪れなかったから、里の様子も少しづつ元に戻っていったわ。私は、あの後父様にこっぴどく怒られたけど、オウマのことを考えればなんてことなかったよ」
「そうか…」
「オウマは大丈夫だった? 何か酷いことされた?」
「うん。大丈夫だよ」
「そっか、よかった…」

 耀は何か話したいと思うが言葉が見つからず、しばらく黙っていた。レンもうやはりもどかしそうに視線をあちらこちらに動かしている。

「オウマ、女の子になっちゃったね…」
「う、うん…」

 姿のことを改めて言われて耀は顔を赤くする。
 耀は改めて身体をひねって自分の身体を見てみる。質素だが、男のそれとは形が違う女性の着物を身に着けた自分の姿に既に違和感を感じなくなってしまっていたが、男のころを知るレンの前では少し気恥ずかしかった。だが、同時に自分が女であることに違和感を感じていないことをレンと再開して改めて知った。しきりに腰を左右にひねって自分の身体を見ている耀は、どこか少女らしさがある。レンはその様子を寂しげに見つめている。

「ねぇ、元には戻れないの?」
「えっ?」

 唐突に放ったレンの言葉に耀は驚いた。

「……戻るって?」
「だって、あなたは元々は男の子だよ。戻れるなら戻ったほうがいいと思うんだけど」

 耀は戻るという言葉を聞いた途端に何故か胸がざわざわと嫌な感覚を抱いた。
 戻れる? 考えてもいなかったことだった。山のヌシの力によって変えられたこの姿がまた元の姿に戻るということは思いもよらないことだった。
 あんな格好をしているが蛇は山のヌシにして神。身近に感じられる存在ではあったが、どこかやはり遠い存在としても感じていた。
 戻るという言葉を聞いて黙り込んだ耀をレンは不安を抱いた。

「ねぇオウマ、あなたもしかして…」
「レン、そんなところで何をしてるの」

 突然、二人の背後から声がする。振り返るとそこにはレンの母親が立っていた。
 耀は思わず着物の袖で顔を隠そうとする。今の自分の姿を里の人間に見られたくなかった。

「お母様?」
「お父様がお呼びよ。早く行きましょう」

 レンの母親は耀にかまわずレンの手をとって連れていこうとする。レンはあわててその手を振り離す。

「お母様っ、待って! オウマが帰ってきたのっ!」
「オウマ?」

 狐につままれたような顔で母親は家の中を見回す。耀はレンのすぐ横にいたが、一度たりとも視線が合うことがない。耀はその様子に背筋に冷たい水が通るような感覚が走る。まさか。

「どこのいるのよ? 誰もいないわよ?」
「えっ…」

 母親の言葉にレンは言葉を失った。
 レンはパッと耀のほうを向いた。青い顔で少しうつむいている耀がすぐに見えた。

「オウマ…そんな…」

 驚きに満ちた顔でレンは耀を見る。耀はそのまま立つ力を失ってしゃがみ込んでしまう。

 ――それと、変化は姿だけじゃない。お前はもはや人間ではない。その姿だといまいち分からないだろうがな。まぁ、いずれ分かる時が来るだろう。

 蛇の声が耀の頭に響く。
 あれはそういうことだったのか。
 ひとしきり見回したレンの母親は再びレンの手を取る。

「さっ、いつまでもこんなところにいないで行きましょう」
「お、お母様ちょっと待ってっ」

 レンは再び手を振り払おうとするが、母親は強引に手を引っ張って家の外へと出て行く。
 助けを求めるようにレンは耀を見るが、すっかり青ざめた表情の耀は土間に手をつきうな垂れている。

「まったく、仕事を手伝わないでほっつき歩いて、一体何をしてるのよ」
「ごめんなさい…」

 家の外からレンの母親のお小言が聞こえてくる。

「それにこの家には近づいちゃいけないって、あれほど言っているでしょう。どうしてあなたはお父様の言葉にいつも逆らうの」
「……」
「それに帰ってきたとしても里のみなはもうオウマのことなんか見捨ててるわよ。何もなかったからいいものを…余計なことしてくれて…ヌシ様のお怒りがあったらどうなっていたことやら」
「そんな…」
「さぁ、行きましょう。お父様が待っているわ」
「……はい」

 家の入り口にそっと隠れて見ていた耀にレンは目配せすると母親に連れられて帰っていった。

 ――もう、ここには居場所はないんだ。

 

 


 昨日のことを思い出すだけでも耀は胸が締め付けられる思いだった。湿った掛け布団の上に音を立てて涙が落ちていく。少し黄ばんだ布団に小さいシミが徐々に広がっていく。耀は嗚咽が出ないように口元を抑える。

 ――蛇……俺は一体何になったんだ。

 カラッ。

 土間のほうで物音がしたので、寝巻きのまま出てみるとそこには何かを抱えたレンが立っていた。

「オウマ?」

 レンは息を飲むような表情で耀を見つめている。そして、ゆっくりと耀のそばに歩みよってくると、耀を耀の目元をそっと指で優しくなぞった。

「ひどい顔。泣いてたの?」

 寝起きのぼんやりとした頭でなんとなくそのまま受けていたが、その優しく指が耀の中で何かを呼び起こしたのか瞳から再び涙が出てくる。しかし激しく込み上げてくる何かに打たれ、正気に戻った耀は慌ててレンの手を払うと、袖で少し乱暴に目をゴシゴシと擦ると、パッと顔あげてパッチリした瞳をさらに大きくあけて笑ってみせた。

「大丈夫だ! 泣いてない!」

 目の周りは赤く腫れてるわ、鼻をすすってるわで、明らかに泣いていたのは誰が見ても明らかだったが、耀は必死で取り繕った。レンを不安にさせないためというよりも、自分の気持ちをごまかすためだった。耀はレンを見ていると何故か自分がとても脆い女であることが浮き彫りになって見えるような気がしてならなかった。

「そう…、ならいいけど」

 不安そうに覗き込むレン。必死になって顔を背ける耀。いつまでもこれではキリがないと感じたのか、レンは一息ため息をつくと腕に抱えていた物を開いてみせる。それは芋やゴボウなどの野菜だった。

「今起きたばかりかな。色々持ってきたから一緒にご飯食べよ?」

 

 


 朝飯を済ませたあと、二人はしばらく放置されて少し荒れてしまった家の片付けをすることにした。元々、耀も家の手入れにサボっていたこともあって、ちょうどいいということで耀も承諾した。作業の片手間に二人は色々な話に花を咲かせた。懐かしい子供の頃の話や、最近の里の出来事、里に来た行商が話してくれた知らないどこかの話。その中でも耀は行商の話に興味深々で片付けがおろそかにならないよう気を使わなければならないほどだった。
 しかし、話のほとんどはレンの話で、耀はなかなか自分から話をすることはできなかった。特に蛇に連れ去られて山に入った後の話は耀の口を固くさせた。未だに気持ちが揺らいでいる自分自身を曝け出したくない気持ちと、里のものが恐れ敬う山のヌシである蛇のことを果たして軽々しく話していいものかわからなかったことが耀を頑なにさせていた。
 そうして片付けがようやく終わったのは陽も傾き始めたころだった。レンは一日中家を空けてきたから、と家へ帰っていった。

「オウマ、また里で一緒に暮らせるよね?」

 帰り際に一言、レンはそう言い残していった。あれはレンの不安が形作った言葉だったのだろう。耀は何故かその返事ができなかった。
 やがて夜も更けて里も寝静まったころ、なかなか床につけない耀は縁側で月をぼうっと眺めていた。今宵の月はとても近く、優しい光で耀を照らしていた。

「……帰りたい」

 ポツリと呟いた自分の言葉に、耀はハッと驚いた。
 今何故、帰りたいなどと言ったのだろうか。ここは元々自分が暮らしていた家。なのにどうして。

「風邪……、ひくぞ」

 突然、言葉と共に、上着が肩にかけられた。振り向くとそこにはいなかったはずの蛇がいた。相変わらずムッツリとした顔をしている。蛇はよっこらせと呟くと耀の横に座った。

「様子を見にきたのか?」
「カヤがうるさいのでな」

 耀は声を出して笑った。

「あいつ、泣きながら訴えるんだよ。そのうち夜泣きまでするじゃないかと気が気じゃない」
「困った子だね」

 すっかり涼しくなった夜に鈴虫の声が響く。しばし二人とも口を開くことなく、虫の声だけが軽やかに響いていた。耀はぼんやりと月にかかった雲を眺めていた。ちらっと横目で蛇を見ると頬杖を膝に乗せてどこを見るとなくぼうっとしている。

「……なんだ?」

 しかし、すぐに横目で見られているのに気がつかれて、蛇はじっと耀を睨むように見た。

「今日、里の人に会ったんだ。レンの母親」
「そうか」
「レンと一緒にいたんだけど、俺の姿だけ見えなかったみたいだった」
「……」
「なぁ、俺って一体何者なんだよ。一体何になったんだ」

 蛇は面倒そうにパリパリと頭をかく。言いづらいのだろうか。

「前に言っただろう。お前はもう人間ではない、って」
「それは聞いてたけど」
「自らが歩み寄らない限り、生きている世界の違う俺たちを人は見ることはできない。それが俺たち神だ」

 蛇はムッツリとした顔で視線を外す。

「神?」
「そう、お前は俺と同属。あの家で目覚めた時から、お前は人より数歩先の世界に住むものになったんだ」
「そんな……」

 俯く耀を見て、蛇は苦いものを含んだような眉を寄せて渋い顔をした。

「お前は、きっと今の姿をその人間に見せたくないと思ったのだろう」
「そうだけどさ…」
「望まなければ、人からは見えない」
「じゃあ、レンは?」
「レン……、あの娘か。あの娘は異能の力を持っているからだ」
「カヤと……同じ?」
「そう、あの娘には異能の資質がある。あの娘も俺たちに近い存在ということだ」
「そう……なのか」

 あの一件で察しはついたが、改めて聞かされて耀の中で悲しみに似た諦めの感情がこみ上げてくる。せっかく帰ってきたのに馴染めない家、里の人には見えない自分、里に見捨てられた自分、そして改めて知った女の自分。里に帰ってきてから色々なものが押し寄せてきて、心が粉々に砕かれそうだ。
 すっかりうずくまって小さくなってしまっている耀に蛇は恐る恐る手を伸ばすがすぐに引っ込めてしまう。

「ごめん……、一人にさせてくれ……」

 耀は顔を上げず震える声で言う。蛇がわかった、と返事すると耀は自分を抱きしめながら家の中へ戻っていった。

 ――すまん。

 口の中で蛇はそう呟いた。

 

 


 それから、耀は家の中に閉じこもるようになった。飯もろくに喉を通らず、ずっと膝を抱えて座り込んだまま、一日を過ごすことがほとんどだった。レンは耀の様子がおかしくなってからも、毎日耀の顔を見に来た。飯の面倒を見たり、家の手入れをしたり甲斐甲斐しく面倒を見たがやがて、

「オウマ、今日は鮎持ってきたよ」

 レンは耀のいた部屋を開けるが、そこには人影もなく家からは人の気配そのものが無くなっていた。

「そんな……オウマ……」

 狭い家の中を探しつくしたレンは膝を着き、静かに涙を落として泣いた。
 ボロボロになった耀は、山へと帰っていった。
 もう二度と里へは帰ってこないかもしれない、そう思うとレンの瞳から涙が止め処なくこぼれた。

 

 


〜つづく〜

 

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