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「……、えっ?」
「だから、伊吹なら帰った」

 昨夜は綾羆(リョウヒ)の社で酒盛りとなり、伊吹に付き合って一晩を明かした耀は寝ぼけ眼で見当たらない伊吹の所在を綾羆に聞いた。

「……帰った?」
「うむ、朝一番に」
「……」

 寝起きではっきりしない頭の中で耀は言葉の意味を理解しようとした。いない、帰った、朝一番で。その三つの言葉が頭の中で犬が円になって走り回るようにグルグルと巡る。
 つまり…、ようやく言葉の意味とその意味の答えを理解した耀の顔にその答えに対するものが表情となって現れてくる。

「な、なんで…??」
 
 置いてかれた。この三つ国を超えた知らない土地に。そのことを理解した耀は途端に大粒の涙をポロポロと零し始めた。

「よ、耀!? 泣くでない、泣くでない!」

 突然泣き出した耀に綾羆は慌てる。伊吹から聞いていた普段の耀とは違った反応を見せられ驚きを隠せない。耀が元々男であったことも聞いている。怒り出すかもしれないとは思っていたが、泣き出すのはまったくもって予想外だった。

「えっ? えっ? あれっ」

 しかしそれは耀の同じだったようで耀は耀で自分の涙に驚いている。その様子に綾羆は目を丸くして見ている。

「…どうぞ」

 その混乱した状況に一人冷静なサクは手ぬぐいを耀にそっと差し出す。

「ご、ごめん。ありがと…」

 ぐすぐすと止まらない涙を懸命に耀は手ぬぐいで拭う。すっかり座り込んで泣いている耀にサクは優しく背中をさすってやっている。綾羆はどうしたらいいのかわからず、呆れているのか困っているのかわからないような表情でしきりに頭を掻くしかなかった。置いてかれて悲しいのか悔しいのかよくわからない耀自身も自分が何故泣いているのか理解できなかった。最近、涙もろい気もする。ここのところ、色々なことがありすぎて涙腺が緩んでしまっているのかもしれない、耀はそう思うことにした。
 ひとしきり泣いて落ち着いた耀は腫れて赤い目で綾羆の話を、時折鼻をすすりながら聞いた。
 
「伊吹からお前は自分の力を使いこなせていないと聞いた。時折暴走しているようだから、師匠として力の操り方を伝授してほしいと頼まれたのだよ」
「ははっ、バレてたか…」

 必死で隠していたがどうやら伊吹はお見通しだったようだ。耀は悟られないように隠していた自分がなんだか可笑しくなった。

「若い神が力を上手く使いこなせないのは仕方ないことだ。伊吹もそうだった」
「伊吹も?」
「そうだ。伊吹も今ではあれほどの存在になったが、昔は私がその力の使い方を教えてやったのだよ。今では私を凌ぐほどの技を持っている」

 昔とはどれぐらい前のことなのだろうか。今の伊吹の若々しい姿を思い出すとそう昔でもない気がする。しかし、彼は神であり強大な力を操る様子を考えると神々は見た目ではその存在を計ることはできないのだろう。そう思うと耀は勝手に伊吹のことを関心してしまう。

「しかし、私が解せないのは何故山を一つしか持たないかだ。今の伊吹は半身を失っているが、おそらくあれの資質なら山を六つほど持てるはずなのだが…」

 ――俺の名は伊吹。八つの首と一つの尾を失った蛇の王。

 耀は山頂の伊吹の言葉を思い出す。半身を失った、それは伊吹が言った八つの首と一つの尾を失ったことを言っているのだろうか。首を取られてもなお生きていることは凄まじいが、八俣の首を持つ蛇の姿は今の伊吹の姿からは耀は到底想像できなかった。しかし、その異形な姿は神としての力を示すものなのかもしれない。その異形の姿を持ちながら、何故首と尾を失ったのか、綾羆はそんな耀の知らない伊吹の姿を知っている者なのだ。口には出せないが耀は嫉妬に似た感情を抱いた。

「ま、それはいいとして」

 思うことがあるのだろう、考え込む耀を引き戻すように身体の割りに大きい手でパンと音を鳴らす。ここからは切り替えろ、ということなのだろう。突然意識を引き戻された耀は不思議そうな顔で綾羆を見る。

「何はともあれ、修練をしようか。言っておくが私は甘くないぞ」

 そういう綾羆はいたずらっぽく口髭を揺らして笑う。突然言い出された修行に耀は少し身構え気味だ。笑ってみせるだけでは、まだそう出会って日が経たない間柄では無理があるだろう。

「…綾羆さま」
「ん?」

 少し畏まりながら耀は綾羆の目から視線を逸らしながら口火を切る。

「俺…、神といわれても…その、よくわからないんだ…」
「と、いうと?」
「俺が一体何者なのか、伊吹や綾羆さまに神という言葉を出されてもよくわからないんだ」
 
 それは初めて口にした耀の気持ちかもしれない。普段あまり口を開かない伊吹や幼いカヤには言うことのできなかった。その言葉からは不安や恐怖が入り混じっていることを綾羆にはわかった。それだけ彼女は抜き差しならぬ状況に陥ってしまっているということだ。

「力が暴走すると何か自分が化け物になったのような感じがして…、そうすると俺は自分が自分でなくなるような気がしてくるんだ…」

 感情が抑えられなくなったのか耀は両手で顔を覆って座り込んでしまう。綾羆は伊吹が何故この時期に耀を連れてきたのか理解できた。あまりに溢れる強力な資質に精神が押し潰されかけている。この機に改善しなければ、耀は狂気に囚われて一匹の化け物に転じてしまうだろう。そこまで伊吹は見抜いていたのだ。

「耀。顔を上げなさい」

 綾羆は座り込んでしまっている耀を引き上げて立たせる。俯きがちの耀を覗くと深い感情が篭った瞳がその激しさ故に揺れている。

「お前は、他の神族とは生まれ方が違う。我らは生まれるべくして生まれた者たちだが、お前は禁忌の法によって生み出されたのだ」

 助けを求めるようにすがる目で耀は黙って綾羆の話を聞いている。

「だが、禁忌の法で生み出されたからと言って私はお前を野放しにする気はない。安心しなさい。私が力の使い方を教えてあげよう」

 説得するように語り掛ける綾羆の言葉に耀の心は次第に緊張が解けていく。まっすぐ見つめてくる綾羆の目には力が感じられる。真実を言っているのは間違いなかった。耀は気持ちを落ち着かせるように小さく深呼吸をすると頷く。

「わかった。頑張るよ」
「いい子だ。しっかり技を身につけて伊吹の元に帰してやるからな。心配するな、お前はいい資質を持っている。冬が来る前には帰れるだろう」

 秋のうちに帰れると聞いて耀は安堵した。見知らぬ土地に長い間置かれるのは心もとなかった。硬かった耀の表情がほぐれたのを見て、綾羆も真剣だった眼差しを和らげて優しく微笑んだ。

「よし、早く帰れるように頑張ろう。では早速、修練の方法を伝授しよう。サク、少し留守にするから社は頼んだぞ」

 社の手入れをしていたサクは顔を上げるとハイ、とだけ答えてまた作業に戻っていった。サクの雰囲気は最初に出会った頃のカヤを彷彿とさせたが、態度にとげがあるというよりも素っ気無い性格なのかもしれない、という風に耀は感じた。

「耀、ついてきなさい」

 そういうと綾羆はのそのそと歩み始めた。必ず力をものにして帰る、そう決意した耀は綾羆の背後で両手を胸元まで上げて小さく握りこぶしを作って気合を入れる。ちらっと首だけ向いて耀を見た綾羆は小さく笑う。

 ――あれが伊吹の選んだ娘か。

 悪くない、そう呟くと今度は大きく振り向いて丸太のように太い両腕を腰に当てて耀に喝を入れる。

「いつまでそうしている。早くしないと冬が来てしまうぞ!」

 大きな声に耀は首をすくめる。どうやら、短気なのは本当らしい。耀は慌てて綾羆の元に駆け寄る。この様子だと修練は本当に厳しいかもしれない。耀は少し身震いをした。

 

 


 日暮れ近くになって、ようやく修練が終わりへとへとに疲れて帰ってきた耀はまるで珍しいものを見るように目の前の人物を見た。

「か、カヤ?」
「姉さまっ!」

 伊吹と共にいるはずのカヤが矢のように飛んでくると耀に抱きついてきた。耀は意外な人物に驚いた。カヤは満面の笑顔で耀の胸元に抱きついている。

「カヤ…、どうしてここに?」
「ヌシ様が、姉さまが寂しがらないようについててやれ、と仰って連れて来てくれたの」

 伊吹が…。耀は周りを見回して伊吹の姿を探すがまったく見当たらない。

「ヌシ様は私をここに連れてくるとそのまま帰ったよ」

 見回す耀に察したのか、カヤは答える。そのまま帰った。その言葉に耀は少し苛立ちを感じる。人を黙って置いていって、戻ってきたかと思ったら、そのまま黙ってまた帰るなんて。

「姉さま、痛いっ…痛いよっ」

 気がつけばカヤを抱き支えていた手に力が入ってしまっていた。カヤは苦しそうに耀の胸を叩く。

「あっ、ごめん…」

 離してやるとカヤは少しむせ気味に咳き込んだ。耀は申し訳ない気持ちで背中をさすってやった。一連のやり取りを黙って微笑みながら綾羆は見守っているが、その横でサクは険しい表情で耀とカヤを見つめていた。

 

 


「ねぇ、カヤ」
「はい?」

 サクの夕飯の支度を手伝っていたカヤは作業の途中にサクに声をかけられた。サクの少し険のある声にカヤは不思議そうな表情で見る。

「あなた、いつから巫女を辞めてしまったの?」
「えっ…?」

 サクの意外な言葉にカヤは驚いた。巫女を辞めた、などと言われる覚えはない。今までもずっと巫女としての勤めをしっかりやってきたつもりだ。カヤには何故そんなことを言われるのか検討がつかなかった。

「仕えるべき神様に対してあんなに慣れ慣れしい態度を取る巫女なんて初めて見たわ」

 サクは先ほどの耀とのやり取りを見ていて、不快に感じていた。耀がまだ若い神だからと言えど、その存在感はそこらにいる異能の力を持つ人や動物たちとは違う。魂の品格の違いをサクはわかっていた。

「……姉さまのことですか?」
「そうよ。その呼び方は何? 何様のつもりであの方を姉さまなんて呼んでいるの?」

 カヤは今年で十歳になるが、サクはそれより三つほど上の十三歳だ。仕事を器用にこなすサクはカヤにとって尊敬する先輩であり、家族のいないカヤにとって姉のような存在である。しかし、カヤにはサクの苦手な部分があった。サクは物静かな印象であるように見えるが実は苛烈な性格でもあり、己の考えを貫き通すために相手に対して容赦がないのだ。その苛烈な性格は神が相手でも曲げることを知らない。
 
「山の神様は尊敬し畏怖すべき存在だわ。軽んじてお相手することはやってはいけないこと。それはあなたわかっていたはずよね?」
「もちろんです」

 伊吹は神の中でも少し特殊な部類だ。強大な才気を持ちながら、気まぐれだが、おおらかであれほど砕けた性格の神はそうはいない。カヤは親しみを感じながらも一定の距離をおいて伊吹に仕えてきた。まだ幼いといってもいい歳なのにも関わらずカヤのその仕事振りは成年の巫女ですら関心するほどだろう。

「ヌシ様にはそのつもりでお仕えしているつもりです」
「なら、なぜ耀姫様にはそれができないの? 若いからといって侮っているのではないの?」
「…ッ! そんなことないです!」

 侮っている。そう言われるのは心外であった。確かに元々は人であり男性であった耀は神としての品格は高いと言えるものではない。だが、彼女自身の持つものは決して侮れるものではない。彼女の持つ才気は伊吹にも匹敵するだろうということを、カヤは自分の持つ異能の才で感じ取っている。それは生存本能が発する警鐘にも近いものだった。
 しかし、彼女を語るにはそれだけでは足りないだろう。だが、それ故にカヤは決して耀を侮っているわけではなかった。

「そんなことは…、ないです」
「なら、何故あんなに慣れ慣れしいの」
「私はあの人のこと…、侮ってなんかいません…」

 すっかり俯き気味になってしまったカヤにサクの冷たい視線が降り注ぐ。おそらくサクはカヤが耀に対する態度を変えない限り許さないだろう。しかし、カヤもその考えを改めることは認めるわけにはいかなかった。

「サク姉さまには…っ、わからないことです…ッ!」

 サクの容赦ない態度にカヤはついに泣き出してしまった。サクにはわからないだろうカヤの感情がそこにはある。カヤにとって耀の存在は義理の姉で済むものではなくなってきているのだ。

「どうした? 二人とも」

 夕飯の手伝いをしに耀が釜戸のある部屋に入ってくるが、その険悪な雰囲気に目を丸くする。気持ちが噴き出してしまいどうしたらいいのかわからないカヤはすぐにでも耀にすがりつきたいが、サクの刺すような目にそれができない。ただ下を向いて涙で足元の地面を湿らせている。

「カヤはなんで泣いてるんだ?」

 何も話そうとしない二人に状況が飲み込めない耀は、とりあえず俯いて泣いているカヤに歩み寄る。

「なん…でも…グスッ、ないっ…グスッ」
「なんでもないのに泣くわけがないだろう」

 ぐすぐすと意地を張るカヤに耀は優しく抱き締めてやる。するとわずかに抑えていた気持ちがついに決壊したのかカヤは大泣きを始めてしまう。

「おいおい、一体なんなんだ…」
「…耀姫様がそうしてカヤを甘やかすからかもしれませんね」

 わんわん泣くカヤに耀は少し慌てている。苛立たしい気持ちでカヤを見ていたサクはそれだけ言うと中断していた夕飯の支度を再開し始めた。手伝いにきた耀はただただ盛大に耀の肩を涙で濡らすカヤをあやしてやるしかなかった。

 ――姉さまは私にとって特別な人。

 幼いカヤにとって耀のぬくもりはかけがえがなく、神である耀との垣根を越える何かがある。それを言うことができなかったカヤは悔しさに涙が止まらなかった。

「母さまぁ……」

 

 


 山々が黒に近い青に包まれる夜更け、それは青白い息を吐きながら山を静かに彷徨う。獣から剥いだ毛皮で身体を包み、獣の血か人の血かわからないどす黒い赤で身体を塗りたくっている。腐臭に満ちた身体で森の大地を裸足で踏みしめる。

「寒い…焼けるように寒い…」

 血にまみれた素肌は血が通っていないように見えるほど白い。毛皮から伸びている手も雪のように白く細い。しかし握られているものはその腕に似合わない無骨な刀。刃こぼれした刀にもこれでもかと言わんほどの血がこびりついている。その刀を振り回し、行く手を阻む木々を切り落としていく。すでに斬る力を失った刀がまるで斧のように大樹を薙ぎ倒していく。バキバキと悲鳴をあげて次々と木々が倒れていく。斬り倒された木々は地面に沈みこむとみるみるうちに枯れ木と化し、粉々になっていく。
 動物たちはそれの姿を見ると本能で危険と察しているのか次々と目を覚まし逃げていく。しかし逃げ遅れるものもいた。一匹の兎が木の根に捕らわれてしまった。人の形をしたそれは兎に構わず裸足で踏み潰す。嫌な音と共に兎は潰されるが足を上げると兎は白骨と化して粉々に砕けてしまっていた。無造作に振るう刀に当たる葉は枯葉に変り、木々は老木のように朽ち果て、土は踏みしめる度に腐臭が放たれる。
 時折、小刻みに震えるそれはそのフラフラとした足取りながらもただひたすらまっすぐと歩み続ける。時折蒼く明滅して光る身体は痙攣するように震える。乾ききった瞳で見つめるのはただ一点。それは旧き熊の神が住む山を目指していた。

 

 


〜つづく〜

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