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 ピターン。

 水滴の滴る音がする。人が数人ほど入れる円形の空間が横に広がっている。上を見上げれば、青い闇に穴が開いたような月が覗き込んでいる。耀は古びた石造りの井戸に立っていた。井戸の底で黒く淀んでいる水に耀は膝まで浸している。黒い井戸の壁にはところどころ手のひらほどの大きさのトカゲが張り付いていて、それは思い出したようにせわしなく蠢いたりしている。しばらくぼんやりとしていた耀だが、水滴の音を聞いて突然我に帰る。

「なんで俺……こんなところに…」

 記憶が正しければちょうどさっき綾羆(リョウヒ)の社にて布団に入ったはずだった。しかし、気がつけば井戸の中にいる。これは一体。

「……夢、なのか?」
「こんばんは。お嬢さん」

 突然背後から声がして振り向く耀。そこには妙齢の女性が立っていた。まるで濡れているかのようなべったりとした黒い髪を胸元まで垂らし、その無造作に下ろされた髪の間から見える瞳は白目の多い不気味な碧眼が覗ける。異様なほど赤い唇がその女性を怪しげな印象を与える。煩わしそうに髪の毛をかきあげながら裂けるように口の端を歪めて笑う女性は手を力なくひらひらと扇ぐ。

「あら、そんなに怖がることないのよ? 別に危害を加えようなんて思ってないから」

 くすくすとおかしそうに笑う女性に、耀は少し身構えて見つめる。ここがどこかわからない上に、いかにも怪しい女性。これを警戒しないわけがない。混乱する頭の中で耀はじっと女性を睨む。女性は耀の顎にやんわりと指を這わせる。その微妙な感触に耀は身を強張らせる。女性の指先はとても冷たく、井戸の凍るように冷たい水滴が身体を這うような感覚を覚えた。

「うふふ、噂通り可愛い子ね。どんな子なのか見たくて来てみたけど、正解だったわねぇ。それにしても綺麗な肌」
「…俺に何の用ですか」

 女性に主導権を奪われている耀は、決して遅れを取らぬように強い眼差しで女性に目的を問う。気を許せば取って食われてしまう、女性は危害を加えないと言っているが、彼女が放つ気配がとても危うく、捕食者のそれに近いものを感じた。

「用って…、ただ会いにきただけよ。それだけ。それ以外は別にないわよ」
「あなたは誰だ。俺はなんでこんなところにいるんだ」
「あら、今日の耀姫サマはなんだかご機嫌ナナメなのね。残念だわぁ、きっと笑顔は今よりもっと可愛らしいでしょうに」
「そんなことどうでもいい。俺の質問に答えてください」

 女性は耀の顎から指を外すが、相も変わらずからかうように笑っている。その様子に耀は苛立ちを感じる。この状況をなんとかしたいのだが、井戸の底ではどうしようもない。これは夢の中だと思っているが、それにしても覚醒感があり、井戸の肌を刺すような冷たさがこれを現実に感じさせていた。

「ごめんなさいねぇ、質問には答えられないわぁ。だって、夢の中で教えてあげるなんて、もったいないもの」
「やはり…、これは夢の中か」
「せっかく遊びに来たんですもの。申し訳ないけど、夢の中から呼び出させてもらったの」

 女性は満足そうに耀を見つめている。耀は何故か、その目つきが少し誰かと似ているような気がした。

「さて、耀姫ちゃんのお顔を拝見したことだし、そろそろ帰ろうかしらね。夜は長いようで短いのよ。あたしもちゃんと寝ないとね」

 女性はにっこりと笑うと耀に手のひらをひらひらと振ってみせる。

「あっ、そうだ」

 耀に背を向けた女性は思い出したかのように振り向く。

「ここに来る途中にこわぁい人を見たわよ。気をつけなさいね、あなた狙われてるわよ」

 首だけひねって耀を見る女性はおかしそうに笑いながら不吉なことを言う。耀は返答に困り、ただ口を閉ざしている。

「それじゃ、今度は実際に会いましょうね」

 ――伊吹ちゃんにもよろしくね。女性はそれだけを言うと黒い井戸の壁の中へ溶けて消えていった。すると壁に張り付いていたトカゲたちは一斉に井戸の壁をよじ登り始め、周りの背景も上から下へと闇の中に溶け始める。周りの背景が溶けていく中で耀の目の前もやがて漆黒に溶けて落ち、耀の意識は眠りの闇へと落ちていった。

 

 

 

「ふむ、妙齢の女性か」

 耀はいつものように修行をし終えた後、帰り際に一緒についていた綾羆に昨晩の夢の話をした。綾羆は一言だけ言うと考え込むように太い腕を組んで黙って歩いている。

「綾羆さま?」
「おそらく、その女性は大丈夫だろう。向こう側も危害は加えないと言っていたのだろう?」
「う、うん…、口ではそう言ってた」
「なら、気にすることはない。その女なら私も知っている」

 大丈夫と言うが、綾羆の表情は険しい。その表情に耀は腑に落ちなかった。自分には危害がないというが、明らかに何かありそうだ。しかし、いくら顔を眺めても人の考えは読めるわけではない。それ以上を語らない綾羆の様子から、もはや何も聞きだせないだろう。
 二人はしばらく黙って山道を歩いていたが、突然綾羆が歩みを止める。

 「おお、今年もこの時期に子供が生まれたか」

 綾羆は手前にある崖から谷底を眺めている。耀も同じように綾羆の横から谷を覗く、すると谷底の大岩になにやら人が集まっているのが見える。目を細め、手をかざして見ると白い装束に身を包んだ男衆が旗を掲げて並んでいる。一番手前に立っている男は何か白い布で包まれたものを大事そうに抱えている。

 「あの者たちはこの近隣の里の者だ。あそこの大岩には私を祭る社があるのだよ。一番前にいる者が抱えているのは赤ん坊だ」

 綾羆はさっと身軽な動作で崖にある岩に登ると持っていた杖で岩を叩く。

 カーン、カーン、カーン。

 杖の乾いた小気味良い音が山々にこだまする。谷底でその音を聞いた里の男たちは赤ん坊を抱えている男以外は皆平伏した。綾羆は大きく息を吸い、張りのある大きな声で谷底にいる里の者に話しかける。

 

 

 ――里の者にお尋ね申す。今年の、今年の、生まれた御子の名はなんと申す。

「東の風裡と申す」

 ――そうではない。そうではない。今年の、今年の、生まれた御子の名はなんと申す。

「西の金烏と申す」

 ――そうではない。そうではない。今年の、今年の、生まれた御子の名はなんと申す。

「八幡山のリョウマと申す」

 ――良い名前だ。山々は八幡山のリョウマを見守っている。大事に育てられよ。

 

 

 綾羆の呼びかけに里の男が声を張り上げて答える。これは昔からある風習なのだろうか、両者ともに言葉を噛むことなく滑らかに問答を繰り返していた。
 一連の綾羆と里の者の掛け合いを見ていた耀は何故かとても嬉しい気持ちになった。主神と人々が血の通ったやり取りをしている。それは耀にとってレンとのやり取りで途絶えたかと思っていたからだ。その時から耀は、人間とはもはや関わることできないのかと絶望したほどだった。

「里の子供は生まれるとこうして、この問答をすることによって強く育つための後ろ盾を得るのだ」

 嬉しそうに見つめる耀に綾羆は優しい笑みで語る。

「神と人との絆はとても深い。彼らも我らがいなければ自立できないように、我らも彼らと寄り添っていくことが大切なのだ。お前も立派な神となった暁には人々を助けてやるのだぞ」
「はい、綾羆さま」

 耀の素直な返事に、綾羆は満足そうに頷いた。いつか、レンとももう一度顔を向けて話すことはできるだろうか、耀の胸の中には悲しげな顔をしたレンが刻み込まれていた。できることなら、次は笑顔で再開したい。これは耀が修練を受ける理由の一つでもあった。
 二人が歩み始めようとした時、風向きが変った。耀は気がつかず歩もうとするが、その僅かな変化に綾羆は気がつき、片腕を上げて耀を止める。
 山道の向こうへ風は流れる、まるでその風は山が深呼吸しているかのように山道へと吸い込まれていく。秋に入り枯葉が敷き詰められた道がその鮮やかさを奪われていき、緊張の、殺伐とした色へと変貌していくような感覚を綾羆は抱いた。
 これは殺気だ。この向こうには修羅の者がいる。綾羆の全身の感覚が肌を粟立たせ、本能的に警告を訴える。

「綾羆さま」

 綾羆に止められた耀も異変に気がつく。僅かだか、風の匂いに腐臭が含まれていることに耀も気がついた。

「耀、下がってい…」
 パンッ!!

 耀に指示をしようと振り向いた瞬間、綾羆の視線の端で血しぶきが上がる。杖を持っていた左腕が身体から切り離され宙を舞っていた。

「ぐうっ」

 刀の赤い光が目の前で翻された。ほんのさっきまで目の前の山道には誰の人影もいなかった。綾羆も自分自身が認知した者の距離はまだかなりあったはずだと思っていた。だが、綾羆の目の前に一つの影が跪いていた。

「ッ!?」

 目の前の者を視認するや否や、綾羆は後方へと耀を抱えて飛び退く。凄まじい素早さだ。旧き神であり戦いを知る綾羆ですら気配を感じ取ることはできたが、行動は見破れなかった。綾羆はあろうことか油断したのだ。

「綾羆さまっ、う、腕がっ!?」
「…大丈夫だ。血は止まっている」

 動揺する耀を宥めるように綾羆は冷静な態度で話す。あれだけ出ていた血も何故か今は一滴も流れていない。何かの術で止血を施しているのだろうか。しかし、綾羆は全身から迸るような汗を流している。

 ――かなりの強さを持っている。

 奇襲をかけてきたそれは獣の皮を被った人のような姿をしている。胸までかかるボサボサの白髪からは血に染まったような赤い瞳が見える。生気のないカサカサに乾燥している唇からは紫色の舌が出ている。顔立ちや体格は少女そのもの。獣の皮の下は袴以外、何も身に着けていないようだ。透けるような雪のような肌を露出している。右手には刃が潰れボロボロになった刀を握っている。刃にも身体中にも、どす黒い返り血で染められている。一体どれほどの命がこの者の犠牲になったのか、それは計り知れない禍々しい狂気をその身に宿していた。

「がああっ!」

 まるで声変わりしていない少年のような声で獣のように咆哮を放つ少女の身体を、炎を彷彿とさせる紋様が青く燃えながら蹂躙していく。その姿に綾羆は記憶を紐解く。似たような者を以前見たことがある。

「鬼か…ッ!」

 綾羆が言葉を零すと同時に鬼と呼ばれたそれは刀を構え、凄まじい勢いで疾風を纏って突進してくる。綾羆は耀を脇に抱えるとその身からは想像もできないほどの身軽な身体さばきで突進を避ける。突進を避けられた鬼は休むことなく斬撃を繰り出してくる。

「う、うっぷ」

 右手に抱えられている耀は回避のために不規則に動く綾羆の腕の中で吐きそうになる。綾羆はとっさに切られた腕と杖を目の端で探す。この鬼は強い。幼さを残した顔をした鬼は狂気の形相で迫ってくる。このまま、耀を抱えたまま避け続けるのは無理があるだろう。
 貪るように鬼は刀による猛攻を放ち続ける。やがて回避しきれなかった斬撃が綾羆の身体を何回もかすめていく。切っ先を受けて裂けた皮膚が出血する前に化膿し始める。一撃でも食らえばその皮膚は腐ってしまうだろう。斬られた綾羆の腕は切り口から徐々に腐敗を始めている。早く処置をしないと危険だ。
 反撃をしないと負けてしまう、綾羆は必死に左腕と一緒に飛んでいった杖を探すが見つからない。よほどの力で斬り飛ばされたのか、避けながら探しても一向に見つからないのだ。
 鬼の斬撃は徐々に速度を増し始め、綾羆は追い詰められていく。鬼の影響力は凄まじい。その刀の猛攻を生身で受けると一瞬にして精を吸われてしまい、皮膚の命を断たれ腐り落ちてしまうのだ。素手で攻撃を受けるわけにはいかない。しかし、唯一残っている片腕も耀を抱えたままでは反撃をすることすらできない。

「ぐっ…!」

 腕を切られた状態で、しかも女性を抱えて攻撃を受け続けるのは無理があった。猛攻を交わし続けることによって思ったより体力を奪われた綾羆はついに体力を使い果たしてよろける。そこを見逃さない鬼は飛び膝蹴りを綾羆のみぞおちに打ち込む。

「ぐ…はっ…」

 強烈な一撃を食らった綾羆は唾を吐いて蹲る。頑丈が自慢の綾羆の身体だが、その強度をはるかに超える力で打ち込まれ、一瞬衝撃に目が眩み全身の力が弛緩してしまう。それに伴い、綾羆は抱えていた耀を離してしまった。ついに動かなくなった獲物を見てにやにやと笑う鬼は刀を上段に構え、綾羆に向かって振り落とす。これまでか、綾羆は動かぬ身体に歯痒さを感じつつも、死を覚悟した。

「やめろッ!!」
 バキンッ!!

 修羅場と化していたその場が一瞬金属音に似た破裂音とともに青い光で包まれた。刀を振りかぶっていた鬼は驚いた表情で固まっている。目の前には両手を鬼の前に掲げ、蹲る綾羆をかばう耀がいた。苦しげに蹲っていた綾羆は驚きのあまりに目を見開いて耀の背中を見ている。

「かはっ…!」

 耀の手のひらから発している目に見えない引力によって、鬼の身体の穴という穴から耀の手に導かれ白い煙が抜け出てゆく。それは一気に青い炎を上げて炎上し巨大な火柱を上空に作り出した。火柱と化した煙が身体から出切った鬼は白目を剥いて倒れこむ。そこにいた者、全てが今の一瞬に起きた出来事に驚いていた。耀自身ですら自分の両手を驚いた表情で見ている。

「よ、耀…、今一体何を…うぐっ」

 息絶え絶えに言葉を吐く綾羆だが、腕の傷が痛むのか苦しげに呻く。放心していた耀は綾羆の苦しげな声に慌てて駆け寄る。倒れた鬼は微動だにしない。

「綾羆さまっ!」
「サクを…、サクを連れてくるのだ」
「で、でもそいつが…」
「大丈夫だっ…。とにかく…とにかくサクを呼んでくるのだ」
「わ…、わかった」

 耀は頷くと火を飲む勢いで社へと走り出す。耀が走り去るのを認めると綾羆は鬼へと地面に肩を擦りながらにじり寄る。無事な右手で鬼の鼻に手をかざすと弱い呼吸が感じ取れた。まだ生きている。
 綾羆は苦しげに呻きながら上半身を起こすと鬼の胸に手をかざし、おもむろに術で体内を探る。鬼の体内を循環していた精が切れかけている。耀がとっさに放った秘術の効果なのだろうか、生きるために必要な精の最低限のところまで削られてしまっている。恐ろしい術を使ったものだ。優しげな外見とは対照的なほどの恐ろしい資質を耀は持っていた。
 しかし、綾羆はこの術を初めて目にしたわけではなかった。遠い遠い旧い時代に一度だけ見たことがある。

「伊吹よ…、これは偶然ではないのだな…」

 感慨深いその一言には悠久の時の中で生きる者の感傷が含まれている。綾羆は、止まっていた運命がまた再び動き出していることを知った。

 

 

 

〜つづく〜

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