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「お?」

 木の枝に紐をくくりつけた簡素な釣竿と小さな籠をこさえた正成(マサシゲ)が川岸にやってくると、そこにはすでに耀がいた。
 岸辺にしゃがみこんで座っている耀(ヨウ)はなにやらじっと水面を見つめている。正成よりも二周りも小柄な背中から、わずかながら緊張が見て取れる。
 声をかけようと思った正成だったが、耀から少し変わった様子を受けたので、しばし黙って様子を見ていることにした。

 スウウ…。

 耀は両手の指先を川へと伸ばし深く息を吸い始めると、それに呼応するように風がなびき水面から水が剥がれるように離れていく。糸のように水を指先で絡め取ると、耀は宙に躍り出て川面の上を舞い始める。川面を軽やかに裸足で踊る耀は、水の糸を編み始める。長い髪を軽やかになびかせながら、冷たい水をしぶくことなく華麗なさばきで川面を廻る。
 やがて水の糸で編まれたそれは完璧な球体の姿を成していく。しかし、よく見るとその球体は一つの水が融合した球体ではなく、糸の形態を維持したまま球体となっている。個々の水の糸は糸としての形を保ったまま、徐々にその容積を増やし大きくなっていく。

「ほう……」

 正成はその様子をすっかり感心し、見惚れていた。美しい。そう言葉にするのも惜しく感じてしまうほどのものだった。これまで正成はそういったものに見たり触れることはなかった。それ故に、耀の舞いに対してなんと言葉で表していいのかわからなかった。だが、その舞いを何かで表現したい、という欲求に駆られた。粗忽な自分が惹かれている。それすら忘れてしまっていた。
 川面を縦横無尽に舞う耀の顔には柔らかな笑みが零れている。楽しいのだろう。最初は硬かった表情がまるで溶け落ちたような笑みだ。

 カラー…ン。
「……ッ!?」

 見惚れてしまって身体から力が抜けてしまったのか、気がつけば正成の手から釣竿が零れてしまった。釣竿は河原の岩の上に落ちて乾いた音が鳴る。その音に気がついた耀は舞いをやめ、音のしたほうをとっさに目を向ける。そこにはばつの悪い顔でこちらを見ている正成がいた。集中していたために耀は正成の気配にまったく気がつかなかった。正成が見ているのを知った耀の顔がみるみる間に赤みを増していく。

「なっ…!? 何見てるんだよッ!?」
「ははは…、たまたまだ。気にすんな」
「い、いるなら…、声かけろよなッ!!」

 恥ずかしさを隠すように張りのある声で怒鳴る耀。顔はすっかり真っ赤だ。正成は正成で誤魔化すような苦笑を浮かべている。
 二人がアレコレ言い合っていると、真っ赤になって怒鳴っている耀の上に浮遊していた水の球体が急に形を崩し始めた。耀の集中力がとぎれたせいで込められていた精が切れたのだ。

「お、おい…っ!?」
「なんだよッ!!」

 それにいち早く気がついた正成は崩れ始めた球体を指差して耀に訴える。しかし頭に血がのぼっている耀は噛み付かんばかりに正成を睨んでいる。

「上ッ、上ッ!」
「上ぇ?」

 必死な様子で言う正成を不審に思った耀は自分の頭上を見上げる。しかし、時は既に遅かった。

 ザバンッ!!
「わぷっ!?」

 形を維持することも、宙に浮くこともできなくなった巨大な水の球は一直線に耀に降りかかってきた。水球を叩きつけられた耀は思いっきり川に沈められてしまった。

「お、おいっ、大丈夫か?」

 完全に川の底に沈んでしまった耀に正成は慌てて川岸に走り寄る。すっかり沈み込んでしまった耀は水面からでは影すら見えない。正成は裾が濡れるのも構わず、秋の冷たい川の中へとざぶざぶ入っていく。

 ザザザザザザザ…ッ。

 突然、目の前でなだらかに流れていた川が、耀が沈んでしまったところを中心に渦を巻き始める。やがて渦の水は反物のように薄く薄く伸ばされながら川の水から離れていき、渦は一本の帯となって、宙を登っていく。

「おい…」

 渦の底から、恫喝するような低い声がした。その様子を再び見惚れて見ていた正成は慌てて川底に目を向けると、そこにはつま先から髪先までぐっしょりとずぶ濡れになった耀が立っていた。耀の濡れた瞳は明らかに怒気が篭っている。顔を赤らめてふるふると震えながら怒りに表情を歪めている耀に、へらっと正成は薄い愛想笑いをするしかなかった。

 

 

 

「ったく……、酷い目にあった……」
「ははは…っ、いや、すまねェ」

 ふくれ面でしきりにぼやく耀を正成は苦笑しつつも機嫌を取り戻そうと宥める。確かに先ほどのは自分の不備であることがわかっているだけに、正成は先ほどから謝ってばかりだ。
 すっかり濡れてしまった耀の着物は、正成が焚いた火にかざされている。着る物がなくなった耀は正成から上着を借りて、自身もやはり焚き火にあたって暖を取っている。

「ホント、すまねェ。詫びに釣りたての魚をご馳走してやっからよ。機嫌直せよ。な?」
「むう……。じゃあ…、塩で包んで蒸したやつだぞ」
「……、山の邑でそんなに塩を使った贅沢な料理は無理だ…」

 耀の邑も山に囲まれているはずなので、そんな料理を知っているのが不思議だが、今の耀にとってこれが精一杯の冗談のつもりなのだろう。しかし、言われた正成のほうは笑うどころか戸惑っている。

「……冗談だよ」
「そ、そうか。そりゃそうか。ははは…」

 耀も冗談のつもりで言ったはずが、真に受けられてしまって気まずそうにそっぽを向く。しばし、お互いにコレといった会話をすることなく、ただ川のせせらぎがその場に響いていた。

「……なぁ」
「んー?」

 しばらく保っていた沈黙を先に破ったのは耀だった。焚き火に枯れ木を放りながら、背後でじっと水面に垂らされた釣り糸とにらめっこをしている正成に話しかける。

「前も自分のことを男だって言ってたけど…、なんでそんなに男になりたいんだ?」
「……なりたいんじゃねェよ。俺ァは元から男だっつの」
「……外見はほとんど女に見えるんだけど」

 自身を男と称する正成の姿はほぼ女性の身体だ。男の部分もほんの一部分に過ぎない。この姿で侍と称して戦場に立つことすら違和感を覚える者は多いだろう。無論、耀もその一人だ。
 その身体は鬼として彷徨っていた頃より比べると肌の色や肉の付き方が格段よくなっていた。病的に白かった肌は血の通った肌色となり、女性的な魅力的な曲線を描くその身体は以前の未熟な少女っぽさのある身体から成熟しつつある身体へと変化していた。悪鬼だった頃は精を無闇に費やしていたせいで身体が痩せてしまっていたのだ。しかし、その頃のほうがより中性的な印象が強かった。

「俺には確かに男の証があるからな。それがなくったって俺は俺自身のことを男だって言うぜ」
「むちゃくちゃだなぁ…。そもそもなんでそんなに男にこだわるんだ?」
「……なんで、だってェ?」

 正成は引き始めた糸に察知して勢いよく釣竿を振り上げる。水面から勢いよく飛び出してきた魚を素手で掴むと、正成は背後にいる耀に向かって振り向く。正成の顔にはニカッと堂々たる自信に満ちた笑顔が刻まれている。

「それは、俺が生まれた時から侍だからだぜッ!」
「……は?」

 首をかしげる耀。

「俺は侍の家の生まれだ。だから、生まれる前から俺が男は決まってんだよ!」
「……」

 正成があまりにも堂々と言うものだから耀は閉口してしまっている。順番が逆ではないだろうか。男だから侍になれるのであって、侍の家の者だからといって男として生まれてくるのは決まっているわけではない。それは元農民の耀ですらわかることだ。

「あーもうっ!」

いらつくあまりに耀は頭をバリバリと掻き毟る。意味がわからない、と言わんばかりだ。

「だーかーらーっ! なんでそれで自分を男と呼べるんだよっ!?」

 耐えかねた耀は怒鳴るような声で正成に詰問する。水浸しの時のような表情に戻ってしまう耀。一方の正成はやれやれといった素振りで魚から釣り針を抜き取ると腰に下げた籠に魚を入れている。

「わからねェかなァ」
「それじゃ分かるものも分かんないよッ!」

 仕方ねェなァ…。そう正成は呟くと焚き火を挟んで耀の目の前にドカッと乱暴に腰をかける。そして、腰帯から魚の入った籠を外すと真面目くさった顔でとつとつと話し始めた。

「あー…、俺ン家は侍の中でもワリと格が高い家なんだ。農民でも理解できると思うけど、そういうでっかい家はな、跡取りがいなきゃ家を代々と受け継げないし、護れないだろ? 俺ァ、その家の跡取りなんだ」

 急に真面目な顔をして語り始めた正成に耀はきょとんとした顔でその話を聞いている。

「長いこと、俺の親父とお袋の間には子供ができなくてな。跡継ぎの問題で、親父はそりゃ相当苦労したらしい。子供ができなきゃ親戚の子供を養子にでもしないと家が潰れっからな」

 耀は偶然だが同じような状況を知っていた。それはレンの家だ。レンの家もまた子供がレンしかおらず、里の長を継げる者がいないことから養子を取ることが、耀がオウマとして生活している頃にあった。今、レンには三つ下の弟がいるが、その子供は元々別に親がいた。ゆくゆくはその子供が里の長を継ぐことになっている。

「その頃にな。とある仙人からある秘薬を頂いたのさ」
「高い代償を払ってまで手に入れた薬でよ。それはそれは親父は効果を期待したらしい。代償は代々受け継がれてきた宝刀とだったしな。親父は血を受け継ぐために、家宝まで手放したのさ」

 正成は腕を組むように自分の身体を抱いてみせる。

「おかげで、子供は生まれたけどな。その薬は確実に子供を宿す効き目と同時に、性別が両方ついちまう薬だった。親父は男寄りに育つことを期待したが……結局、俺はこんな身体に育っちまったわけだ」

 そこまで一気に話すと、正成は一息ついて皮肉めいた笑みを浮かべる。

「わかったか? 俺が男だってのは義務みたいなもんなンだよ。家が潰されないためにも俺は男でいなきゃいけないンだよ。例えそれに無理があってもな」
「でも……、それって辛くないか……?」

 重く口にした耀の言葉に、面食われたような驚いた表情をする正成。しかし、それもすぐに笑みに変わる。先ほどと違って、その笑みは子供のような無邪気な笑みだ。

「そんなことないぜ? 俺ァ自分でも男でありたいとも思ってンだ」

「俺ン家はな、爺さんの代で今の地位になったンだ。爺さんは俺がガキだった頃に戦死したけどな。それはすげェ戦いっぷりだったらしい。爺さんは俺により強い侍になれってンで幼い俺に剣術を叩き込んだ。きつかったぜェ…、半端じゃねェ練習量だったしな。おかげで戦場を駆け巡る強さを手に入れたんだけどな」

 幼いころの思い出がよみがえってくるのか、正成は懐かしげに話す。

「今でも爺さんは俺の憧れなんだ。俺も爺さんみてェに強くなって武勲を上げるのが夢だった。まぁ、おかげで戦で殺しすぎて、こんなンになっちまったがな」

 正成は腕に焼き付けられてしまった青い炎の刺青のようなアザを見ながら自分の所業を自嘲気味に鼻で笑う。

「どうして、こんなことになっちまったンだろうな…。俺ァ爺さんのようになりたかっただけなのにな」
「お前……」

 少し節目がちになった正成に耀は少し気の毒な気持ちになった。正成自身はとても純真なのだろう。しかし、その一途に思うあまりに殺戮の業が正成を焼いたのだ。少しでも違う道へ正成が歩んでいたならば、もしかしたら今とはまったく違う存在になっていたのではないだろうか。

「……なんか湿っぽくていけねェな。ま、そういうことだ。わかったか?」
「う、うん…」
「まぁ、俺なんかよりお前ェのほうがよっぽど変だと思うぜ」
「なっ、なんでだよ?」

 急に話題の矛先が自分に向けられて耀は動揺する。

「俺からすりゃ、お前のほうがどっちなんだって思うぜ?」
「……どっちって?」
「お前さ、なんか中途半端なんだよ。口調は男っぽいのに仕草は妙に女っぽいところがあるだろ? かと言って力仕事は自分から進んでやるし、それだけの腕力もある。その上裁縫とか料理も器用にこなすしな。男の性分も女の性分もどっちも中途半端にあンだよな」
「……そうかなぁ?」

 耀自身も心当たりがないわけでもない。ただ、気がついても忘れることにしていた節もある。

「お前ェは……、一体どっちになりたいンだ?」
「よく…わからないよ……」

 神の属性へ進むことを決めた耀だが、それでもまだ自分の存在は揺らいでいた。それは自分の心はどちらの性として生きるのかだった。身体は女となったが、耀の心は未だ残る男だった自分を捨てることができず、かといって今の自分を拒絶することもできずにいた。

「両方とも、今の俺自身だ…。どちらか一つを選ぶなんてできない…」
「じゃあ、お前ェはずっとそのまま中途半端な存在として生きるンか? それはお前ェ自身を偽って生きることになるんじゃねェのかよ?」
「……ッ!?」

 自分を偽る。果たして本当にそうなのだろうか? 耀はその言葉に疑問を抱いた。

「どちらかの自分を捨てて、選んだ方を本当の自分とする……それが正しいとは、今の俺には思えない。それこそ、俺自身を騙しているんじゃないのか?」
「その両方を保ったまま、生きられるほど器用なヤツがいるもンか。そのうち、自分を保てなくなっちまうぞ」
「……お前ェはあの熊のオッサンに言われてただろ? これから強くならなきゃいけねェってよ…。それなのに自分自身がそんなに不安定じゃ、才能も台無しじゃねェか」
「……ッ!? そんなことは……ないッ!!」

 正成の言葉に憤りは感じた耀は思わず、拳をきつく握りこんで立ち上がる。きつく睨む耀だがそれを受けてもなお、飄々とした表情で正成は言葉を続ける。

「さっきも見さしてもらったが、お前ェはすげェ力の持ち主だよ。神の力っつーのは俺ァいまいちよくわからねェ。だが、それでも本物の凄さは分かるつもりだぜ。だから、その力を使えるお前ェの不安定さがもったいなくて仕方ねェ……」
「余計なお世話だ……ッ!」
「ま…、そのうちわかる時が来ると思うぜ……近い将来にはその問題とぶち当たる……と、なんだテメェは」

 言葉を途中で切った正成は耀の背後にいる何者かに向かって鋭い眼差しを向ける。耀が慌てて背後へ振り返ると、そこには一人の男が立っていた。

「まさか、またお前と顔を合わせないといけないとはな……」

 その男は苦々しく言葉を吐く。耀の背後にある森から出てくる存在、そこにいたのはいつぞやのカエル男だった。自分の身体よりも巨大な両刃のマサカリを担いだその姿は以前にはなかった闘気でその身を張り詰めていた。相変わらずのフンドシ一枚の姿に耀は嫌悪感を抱く。一方正成のほうは、その闘気を感じ取っているのか、正成の全身は刻まれている青い炎のアザが光を放ち始める。

「テメェは何者だ?」
「……お前なんぞに用はない」

 カエル男は鋭く睨みつけてくる正成に軽く視線を向けるが、その視線すぐに耀に向けられた。向けられた耀は以前の記憶を思い出したのか、自らの身体を両手で抱いて嫌悪感に耐えていた。カエル男は以前とは違い、落ち着き払った声で言葉を続ける。

「お前が耀だったな。お前を迎えにきた。一緒にこい」

 

 


〜つづく〜

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