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 イチは幼くして神々を統べる緒乃(オノ)の館に奉仕するためにやってきた少年だ。イチの家系は狐であり力のある種族であったが、たまたまイチの家は序列が低く貧しかったのでまだ幼いイチも奉公することを強いられた。母譲りの面影は誰もが少女と見紛うほどのものだったが、イチ自身は自分のそれを嫌っていた。飽くまでも自分自身は男であり、少女のようなそれは男らしくないと思っていたからだ。しかしながら、性格は気弱で小心者だったので、本人の意思とは裏腹にその容姿と違わぬ線の細い子供として育ってしまった。

 ――そこの部屋にいる子は、ヤマタのオロチの嫁よ。

 炎竜の神にとある部屋の主の世話を強引に申し付けられ、夢蜥蜴の神にその主の正体を告げられた時は恐ろしさに思わずその場で身震いをしてしまった。

 八俣の大蛇。

 それは旧き神々をも震撼させた化け物。雷馬の神をその顎で砕き、嵐鷲の神を締め滅ぼした罪深き神として今も語り継がれている。両血筋の神は未だその恨みをその胸で腐らせているが、その強大な魔物に対し大いなる恐れもまた抱いている。神々ですら恐れ慄く唯一無二の存在。それが八俣の大蛇である。
 そしてその嫁が今、イチの目の前にいる。部屋の戸を開けるまでイチは八俣の大蛇の嫁もまた恐ろしい存在だと思っていた。神々が怖れる存在が愛した娘である。どんな力の持ち主か計り知れないものを感じていたからある。

 ――あれ?

 しかし、その女はイチの想像とはまったく違う姿をしていた。
 苦しげに肩で息をつく弱々しい娘が柱に縛り付けられている。館に住まう女神らとはかけ離れたような地味で粗末な着物が着崩れ、露出した肩からは透けるような白い肌が覗いているが、珠になった汗が張り付いた肌には薄く柔らかい鱗がその肌から浮き上がって見える。珠のような汗は娘の額からも吹き出ているが、その娘の顔は恐ろしげというよりも優しさが滲み出ているかのような柔らかい作りをしている。

「……誰…?」

 気がつけば娘は苦しげに閉じていた瞳をうっすらと開けていた。イチは見惚れていた自分に気がつき、首を振って自我を取り戻す。

「あ、あの…、その…」
「……こ、ども?」

 口に含むようにモゴモゴと声を出すイチに娘は定まらない瞳でイチを見る。

「お、お世話を仰せつかったんです」
「……そ、う。ここも…子供が働いて…いるのか」

 イチはまだ年若く見えるこの娘が八俣の大蛇の嫁だとは信じられなかった。確かに、娘からは蛇の気配と匂いがしたが、それ以上のものが見出せない。ただのか弱い女性にしか見えないのだ。

「汗…拭いますね」
「ありが…とう…」

 娘の肌を黙々と拭うイチ。ところどころ、白い肌から鱗が浮き出ているのは恐らく精の欠乏が激しいからだろう。身体を拭かれている娘は再び瞼を閉じている。話題もなく黙って拭うイチだが、その手は酷く震えている。女神の世話は慣れていたが、やはり頭の中で八俣の大蛇という名前がチラつき作業の邪魔をする。

「震え…て…いる…?」
「えっ」

 布を持った手を娘がやんわりと掴む。弱々しい握りで掴まれたがイチは恐怖のあまりに身体を硬直させた。娘は不思議そうにイチを見る。手を掴まれたイチは終いには泣き出しそうな顔で肩を震わせている。

「オレが…怖い…?」

 プルプルと必死になって首を左右に振るうイチだが、果たしてその様子が娘に見えているかどうか怪しい。娘は掴んでいる手とは逆の手も動かし、イチを自分の身体へと引き込む。

「わっ! わっ! ご、ごめんなさいっ」
「……」

 弱い力だがイチを胸元に引き込もうとする娘にイチは泣きそうになって何故か謝る。しかし、瞳を閉じたままの娘にはいつの間にか優しい笑みが浮かんでいた。イチは突き飛ばしそうになるのをこらえている。相手が何をするかわからないが、神の機嫌を損ねることがどんなに恐ろしいことがイチは身をもって知っていたからだ。

「……くす」

 娘はイチを完全に自分の胸元に引き込むと優しくイチの頭を撫で始める。そこには篭められているものは愛情以外の何者でもなかった。

「汗…臭いかな…? ゴメ…ン…」
「い、いえ、そんな…っ」

 イチの頭の中は混乱していた。なんで自分が撫でられているのかわからなかったからだ。女神というのはこうやって他人と肌を触れ合うことを嫌う。大仰な着物を何枚も着重ねて肌の露出も極力少なくしようとするものが多い。夢蜥蜴の神などは女神の中でも変わり者で、そのような普遍さは持ち合わせてないようだが。

「子…供が…おびえ…ているの…、ほうっては…、おけないから…」
「……」

 近い昔、一度だけ里にいる母親にこうやってしてもらったことをイチは思い出した。優しい手つきで撫でるその手は、その母親を思い出させる。少し望郷の想いがイチの胸の中で蘇る。

「かあさま…」
「…ふふ…、ごめん…。オレ…が…君の…母さん…じゃなくて…」

 イチはその娘の言葉にハッとする。今抱かれていた人物は自分の母親なんてものじゃなくて、あの恐ろしい八俣の大蛇の嫁なのだ。

「…あっ?」

 必死に娘の腕を振り解くとイチは警戒する目で娘を見つめる。いつの間にか、娘は目を開いていてそこから覗く碧眼の瞳は先ほどとは違い、はっきりと意思をもってイチを見つめていた。

「ぼ、僕をかどわかすつもりだったんですか…ッ!?」
「そんな…、震えて…いた…から…」

 娘は悲しげな笑顔でイチに答える。

「ぼ、ぼ、僕は…っ、騙されませんから!!」

 虚勢を張らなければ自分がダメになりそうな気がしたイチは少し声を張る。娘は未だ警戒心の解けないイチの様子を見て、苦笑交じりでため息をつく。

「ん…、わかっ…た。いきなり……ごめん…ね…?」
「い、いえ…そんな」

 娘の態度にイチは少し調子が狂う気持ちだった。こんなに腰が低くて優しげな女神はこの館にはいない。何よりもこの娘は他の女神と違って圧倒的に若かった。娘は気を取り直したのかイチを見て笑みで首をかしげる。

「オレは…耀(ヨウ)…。君の…名前…は?」

 

 


 同じ館の別室にて、伊吹(イブキ)の姉である音遠(ネオン)が、館の主に呼び出されていた。

「最近はよく協力してくれているじゃないか…」

 暗闇に包まれた部屋に一人静かに床に腰を下ろしている館の主は低い声色で音遠に語りかける。おもむろに顎を摩る腕には何やら綱のようなものが絡みついている。

「うふふ…、面白くなってきたから首を突っ込んだだけよ」

 館の主は威圧感のある声だが、音遠はそれを涼しげに微笑みながら言葉を受けている。

「それがこちらにとって有益なら有難い。それで、もう一つ頼んでも構わないか?」
「あら…、アタシに何度もお願いをするなんて珍しいわね。なにかしら?」

 音遠は微笑みを保ちながらもわずかながら眉を動かす。頼みが増えるということは状況が足早に進んでいる証拠だ。館の主は組んでいた胡坐を組みなおして言葉を続ける。

「伊吹の嫁に近しい人物を一人探してきてもらえないだろうか」
「耀姫ちゃんに近しい人物?」

 頷く館の主の隻眼が鈍く光る。部屋が暗いのでわからないが、小さく笑いながら話していることがなんとなく音遠にはわかった。

「そうだ…。娘がもっとも心を許している人物。それを探してきてほしい」

 笑っている主の空気が少しばかり禍々しいものを感じ取った音遠だが、音遠の嗅覚が館の主が面白いことを考えていることも嗅ぎ取っていた。これに乗っておかない手はない。

「ふうん…。それで連れて来たら何をするのかしら…?」
「ちょっとした余興だ…。きっと楽しめるだろう」

 くつくつと笑う部屋の主は肘をかけていた一つの箱に目をやる。人一人が入れるぐらいの大きさの箱。それは厳重に札が貼られ、簡単に開封されることの無いよう、特に口の部分にはビッシリと貼り付けられていた。箱自体はとても古めかしく箱の材料である木材と金具は時代を感じさせるくすみと錆で覆われている。

「それは…、なにかしら?」
「なに…、昔手に入れた戦利品の一つだ」

 ――そう、それを使うのね。音遠は目を細めてその箱をじっと見つめる。先ほどの禍々しい空気はこの箱から出てきているものでもあった。一体何が入っているのだろうか、いわくつきであることは間違いなさそうだが、その箱から音遠は何やら懐かしい気配を感じ取った。

「どうだ。頼まれてくれるか?」
「ええ…。かまわないわよ」
「夢を渡ることのできるその力ならきっと見つけ出すことが出来るだろう…。期待している」
「うふふ、じゃあ早速支度しなくちゃね…」

 楽しそうにクスクスと笑う音遠は立ち上がると足音もなく部屋を去っていく。そして独りとなった部屋の主は腰を上げると背後にある巨大な岩を見上げる。その岩のちょうど中心部にはまるでそこから生えているかのように女性の上半身を象った岩が突き出ていた。

「リン…。もうすぐだ…、もうすぐお前とまた話ができる日が来る…」

 キィン。岩はまるで返事をするかのように、幽かな金属音を発する。それはその岩がただの山から切り取った岩でないことを示すかのようだった。

「…リン。お前には聞きたいことがたくさんある…。きっと答えてくれると信じているよ…」

 苦しげに呻きながら胸を掴みうずくまる主の隻眼から一筋の涙が流れる。それは過去へのある想いが主を涙させるのだった。

「だが…、リンお前とゆっくり話す前に…」
バァン!

 鋭い反響音が部屋を走る。うずくまっていた主は力強く拳を床に叩きつけると立ち上がる。その瞳にはもはや悲しみではなく、赤々と燃えたぎる怒りが宿っていた。

「伊吹…! 貴様が奪っていったものを今度はこちらが奪い返してやる…!」

 怒りに猛る主は獅子のように吼える。唸る声に空気がまるで怯えるかのように振るえている。

「貴様に封魔の力を渡すわけにはいかない…!」

 

 


 館の主の部屋に一人、物陰に隠れて主の話を聞いていた人物がいた。

「…フン」

 火槌(カヅチ)である。息を潜め気配を消して部屋にいた火槌は、部屋の主が独り癇癪を起こしている様子をしばらくじっと見ていたが、その様子を鼻で笑うと部屋を後にした。

 ――この館にはいつまで経っても過去の亡霊に囚われたままだ。

 緒乃が神々を従えてから数える気にならないほどの年月を火槌は見つめていたが、この暗雲垂れ込めた館の中にはほとほと嫌気が差していた。まるで足元に渦巻いているような暗い穴倉の空気がまとわりつくような感覚にはもはや神々の威厳ではなく、ため息で包まれているかのようだ。

「……、それもこれもあの忌々しい我が弟のせいか」

 火槌は独りぽつりと零す。火槌自身は伊吹の件に関わりたくないというのが本心だ。伊吹は親兄弟への影響力も強い。しばらく会っていないが、伊吹と寝起きを共にしていた頃から感じていた。邪気が強いのだ。それも人を狂おしくさせるほどのものを生来持ち合わせていた。その強い邪気に親であった夫婦は狂い、滅びていった。その冷気にも似た邪気は同じ兄弟である幼かった火槌や音遠にも少なくとも影響を及ぼしていただろう。

「…忌々しい。できることなら二度と会いたくないものだが…」

 しかし、この館は今その忌々しい存在を再び呼び寄せようとしている。封印され、大人しくなった伊吹がまた封魔の力を求め始めたという音遠の報告に、神々は再び混乱を招き始めている。

 ――オロチがまた封魔を求めておるようだ。
 ――まさか、封魔の者は滅びたはずであろう?
 ――いや、自ら生み出したという話だ。
 ――なんとおぞましい。禁術に手を出したのか。

 このような会話が館はもちろんのこと、各々の山々で交わされている。この館の主の陰気にあてられたのか、ひそひそと神々は陰鬱に言葉を交わす。そんな様を見ていると火槌はいっそのこと館ごと焼き払ったほうがスッキリするのではないか、と考えてしまう。

 ――しかし、往々にして疑問だ。

 それは何故伊吹が封魔を求めるのか、である。
 封魔とは神々や鬼の力の源のである、精を消し去る力のことだ。その力は神々には備われておらず、人や獣などに時折宿る力として知られている。この力を持つ者は神を滅ぼすことができる唯一の存在となれるのだ。故に封魔は神々が恐れる力であり、それは伊吹であっても同じことである。

「相変わらず何を考えているのかわからないヤツだね…」

 だが、伊吹が何を企もうと望みの存在はこちらが握っている。音遠によれば、その封魔の者を伊吹は嫁としたと言っている。つまり、今この館で虜にされている耀がそうなのだ。

「だが、このままあの娘を生かしておいても伊吹をいたずらに呼び寄せるだけだ…」

 館の主は何を企んでいるのだろうか。火槌には皆目見当がつかない。だが、一度は伊吹を封じたのもこの館の主である。策はあるのだろう。しかし、火槌は日が経つにつれて言い知れない不安が胸に灯り、少しずつ燃え広がりつつあった。
 だが、火槌はどうすることもできないと感じていた。自分は無力であり、この不安に抗う手立ては館の主に従う他にはないと。これは火槌が幼い頃より抱いてきた強い劣等感が生み出したものである。強い弟を持った弱き兄はその弟に食われてしまわないように大きな傘を求めた。それが今の立場だからだ。

 ――僕は…、弟が怖い。

 気がつけば、火槌は小さく震えていた。どこへ行けば、弟の脅威から離れられるのだろう。時々、そのような思いに囚われる。緒乃が伊吹を倒した時、とどめを火槌は望んだ。だが、どうやっても殺せなかった。だから、仕方なく封印することにしたのだ。だが、あの時、伊吹を殺すことができたなら…。

 ――もし、なんて神が考えることじゃないな…。

 そう、自分たち神が決めたことが軌跡となり、それが世界を作っていく。だから、もし、はあり得ない。わかっていることだ。そう、わかっていることだ。

 ――もう…、気が狂いそうだよ。

 父や母もそんな思いだったのだろうか。火槌は父や母が狂って死んだ時のことは思い出したくなかった。それが自分の未来に繋がっていることなど、もっと考えたくないことだ。
 神は人や獣の道を示し、時に窮地から救い出す。だが、神を救う者はどこにいるのだろうか。どこに抜け道があるのだろうか。

 ――こんなことを考えるなんて僕は神さま失格だね…。

 自虐の笑みを広げる火槌。そこには神と呼ばれる強き行使者などおらず、救いを求めるか弱き存在が立っていた。

「火槌様」

 背後から声をかけられる。火槌は声の主に向かって、皮肉な笑みを作り浮かべた。そこに立っていたのは音遠の僕であるゴウだった。

「ぼうっと立って…、どうかしたんですか?」
「いや別に…、なんでもないよ」

 そう答えると火槌はゴウに手で挨拶すると軽薄な笑みを浮かべて去っていく。その背中を後ろに眺めていたゴウは黙って火槌のいなくなった廊下の陰を見つめ続けていた。あの救いも無い残酷な後始末のように鬼を殺す火槌の背中と先ほどの背中が重なって見えた。

 ――フン…。神さまってのは理解できねぇな…。

 じっと見つめ続けるゴウの双眸には神に対する不信感が色になって浮かんでいた。

 

 


〜つづく〜

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