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 月光の明るい夜。草木も眠る夜更けに地響きが鳴り響く。
 ゆっくりゆっくりと大地を振動させながら如何なる者をも威圧するそれは山を覆って締め付ける。木々をなぎ倒し、土を削りながらうねるそれは巨大な蛇。その姿はまるで夢にまどろんでいるかのようにそれは穏やかに山を包み込んでいた。

 

 


「?」

 両手いっぱいに洗濯物を抱えてやってきたカヤは、縁側まで運んでくると足元に何やら黒いものが広がっているのが見えた。

「はぁ…、姉さま……」

 ため息をつくとカヤは洗濯物を床に置く。そこには、柔らかくなった日差しを浴びながら小さく丸くなって眠る耀がいた。カヤが見たのは扇状に広がってしまっている耀の長い髪の毛だった。
 秋に入り、涼しい季節になったにも関わらず無防備に少し着物が崩れた姿で寝てしまっている。これでは風邪を引いてしまう。
 カヤはおもむろに自分の部屋から上着を持ってくると耀にかけてやった。
 ここのところ、耀の様子がおかしい。里から目を赤く腫らして帰ってきた耀は三日間寝ることなくぼうっと座り続けた。話しかけても反応することもなく、カヤもどう扱ったらいいのかわからないでいた。何も口にせず、ただずっと無言で膝を抱えて座っている耀の姿はとても痛々しかった。三日もそのまま座り続けていたにも関わらず耀の顔色や身体には変化は起こらなかった。カヤは耀が人と違うものだということをここで見せ付けられたように感じた。
 今は三日前よりは幾らか落ちついたようだが、こうして昼と夜が逆転し、昼はずっとこうして眠り続け、夜もまたずっと起き続けているようだ。
 カヤは小さく寝息を立てている耀の前に座り込むとそっと同じ向きになって寝転がる。身体をよじって耀とくっつくように寝そべってみる。暖かい体温と優しい匂いを背中と鼻で一杯に感じる。そうしていると忘れていた何か思い出せそうな気がした。
 独りでにカヤの目から涙がこぼれてきた。ハッと気がついたカヤは両手でクシクシとごまかすように顔を擦ると耀を起こさないように気をつけるようにそっと耀から離れた。背中で感じていた優しい体温は儚く失われていく。名残惜しさを感じながらもカヤは耀にかけた上着をかけなおすと再び洗濯物を持って縁側から外へ出ていった。
 その様子を私室の戸を気がつかれない程度に開けて見ていた蛇はため息を一息つくと、静かに戸を閉めた。

 

 


 夜。昼とは打って変って肌寒さを感じるようになったが、それでも昼間のままの姿で耀はぼうっと縁側から月を眺めていた。今宵は満月、丸くそしてとても近い月に魅了されているかのように耀はずっと月を眺め続ける。

「月には気をつけろよ」

 ぼうっと月を眺めている耀の隣に蛇が腰をかける。耀は蛇が声かけたのすら反応しない。魂が抜けてしまったように、人形のように瞬き一つしない。

「満月の光は影響力がある。例え神でもな」

 耀は神という言葉にぴくんと反応する。しかし痙攣に近い反応だけ見せたあとはまったく動こうとはしなかった。 蛇は、腰まで無造作に流れる耀の黒髪をすくい上げる。しなやかで柔らかい髪の毛は手を傾けると砂のように滑り落ちていく。このまま、例え抱きしめたとしても耀はきっと身動き一つしないだろう。だが、蛇はそれ以上のことを自分が出来る気がしなかった。

「……」

 ひとしきり耀を眺めていた蛇は諦めたのか、立ち上がると自室に入っていった。
 それからしばらくして時間が経ち、家のなかで身動きする姿が無くなり夜の世界が虫の声で支配されると、耀はふいに立ち上がる。そして縁側から外へ降りると裸足で月へと歩みよっていく。それは夢遊に彷徨うものとは違い、しっかりと地に足を踏みしめて歩いていた。月の光を浴びて光る耀は月に向かって手を差し伸べる。まるで月の向こうには何かがあるかのようだ。つま先で立ち懸命に月に向かって手を伸ばす耀。ひとしきり耀は月が沈むまでそうして月に向かって手を伸ばし続けていた。

 

 


 午前、まだ陽が頭の上に来ていないぐらいの頃、蛇はいつものように木槌と瓢箪を持って山を歩いていたが、そこで一匹の鹿と出会った。
 雄々しく立派な角を生やした雄鹿は蛇に歩み寄り、しきりに訴えるように唸る。蛇はその鹿の腹を優しく撫でてやる。しばらくそうしてやると鹿は気が済んだのか。おもむろに蛇から離れ、軽やかな足取りで、すぐ手前の谷へ跳躍しながら降りていった。一人残された蛇は顎をしきりに撫でて呟いた。

「大蛇か…」

 風が笛のような声で蛇の眼下にある谷を走り抜いていく。その谷は何かが通ったかのように土が抉れて出来たものだった。それを眺める蛇の表情は苦悶に満ち満ちていた。

「……どうやら、思ったより真面目にやっていたようだな」

 苦笑を含んだ表情で蛇は呟いた。雑草のように倒れている眼下の森の傷跡がそこを通ったものの巨大さを物語っている。
 谷の底へと降ってきた蛇は瓢箪から何かを口に含み、背中に下げていた木槌を振り回す。風を切るように鳴る木槌がその回転を徐々に加速していく。風を切るように回転していた木槌から徐々に風が新たに生まれる。ゴンゴンと唸りを上げて回転する木槌を蛇は一気にその力を保ったまま地へと振り落とす。

 ゴオォーーーーーー……ン!!

 鐘の音にも似た音が山中に鳴り響く。共に凄まじいほどの膂力で打たれた地面が巨大な力で重く揺れる。谷となっていた地は一気に崩れ落ち、打ち下ろされた地面は隆起する。揺れが収まるころには平坦とは行かないまでも谷であったそこは完全に埋まり、不自然に抉られた谷は姿を消していた。
 谷を修復した蛇は、今度は口に含んでいたものを木槌に吹きかける。甘い酒気を帯びた匂いが辺り一体に立ち込める。そして濡れた木槌に風を纏わせて倒れた木々に向かって横に薙ぐ。酒気纏って飛翔する凄まじい疾風が倒れた木々を大きく揺らす。疾風が通り過ぎたむき出しの大地や木々に新しい草木の芽が一気に芽吹き始める。しばらくすればこの辺りもまた緑で埋め尽くされるだろう。

「さて、どうしたものか…」

 山を周り、不自然に削られ破壊されているところをひとしきり修復し終えた蛇は山の頂で一人座り顎をさすりながら思案する。今は何も思い浮かばない。だが、このままではいずれ怖れている状況に陥ってしまうだろう。こうやって山を幾度も修復するのにも限度がある。
 蛇の焦る気持ちを写しているかのように、山頂より低くかかる雲は早く流れていく。
 時は無常にも過ぎ去っていく。あまり時間はない。

 

 


「オウマ…、大丈夫かな……」

 耀と別れてから、レンは耀の様子が気になって仕方なかった。とても山を歩ける様子じゃなかった。どこか山の中で倒れていたりしないといいが…。耀が出て行った後、必死で山の中を探したが見つけることができなかった。レンは耀が崖の底で倒れてたりしてはないかと思うと夜も眠れない気持ちだった。
 母親に言われたお遣いの帰りだった。レンはすれ違った拍子に妙なことを話しているのを聞いた。里の男が二人、刈り入れされた田んぼの横で何やらぼそぼそと話している。山がおかしいとか、ヌシ神がと言うのでレンは気になり、通り過ぎてから、回り道をして戻り、そっと少し高く作られている畦道の坂に隠れて聞き耳を立てる。

「だから、本当だって!」
「山が抉れてるぅ? そんなことあるかい。今日だって地震なんかなかったぞ」
「本当なんだって! 三日前、山に山菜を取りに行ったらよぉ、山にでっかいものが通ったような感じで地面が抉れてるし木はぶっ倒れてたんだよ。でも、今日戻ったら元に戻ってて……俺は化かされてたんじゃないかと思ったんだけど、なんだか気味が悪いんだよぉ」
「ホントかねぇ…、ちょっと信じられないなぁ」
「ホントにホントなんだってぇ!!」

 片方は冷やかし半分で笑いながら聞いてる一方、必死で訴える片方の男の顔は興奮して赤い。男の様子が少し尋常でなかったので、気になった。山で何か起こっているのだろうか、レンは耀が酷い状態で戻っていったことを思い出した途端、胸騒ぎが止まらなくなった。もしかしたらオウマが関わっているかもしれない。
 レンはそっと畦道をかがんで離れると自分の家へと走った。山に行かねばならない。直感に素直なレンは急いで帰った。

 

 


 眠りにまどろむ耀は夢を見た。
 柔らかく流れる川のようにたゆたう眠りの中で見る夢は心地いい。流れにまかせて揺らめく意識の中で耀は幼子が泣く声を聞いた。
 そちらへ視線を向けると一人の男の子供が泣きじゃくっていた。憐れと思った耀はその子供に歩み寄り、地面に膝をついて抱きしめる。

「なんで……、泣いているんだ…?」

 子供を優しく抱く耀は耳元で尋ねる。子供から懐かしい匂いがする。

「かあさんが…しんじゃった…」

 泣きじゃくる子供は嗚咽交じりにそう答える。耀はハッと子供から離れる。
 夕焼けを浴びて赤く染まる茅葺屋根の家。黒くポッカリ開いた戸から不吉な瘴気が流れてくるのを感じた。

「ここは…」

 そこはついこの前尋ねた、自分の生まれ育った家だった。何かに気がつき耀は子供の顔を見ると、その子供は、

「この子は……オレ…?」

 幼き頃のオウマがそこに泣きじゃくりながら立っていた。夕焼け、そして黒くぽっかり開いた家の入り口。この風景は見覚えがある。耀は恐る恐る家の中へと入っていく。
 何故だろうか、見たくない光景がそこにはあると分かっているのに足を止めることができない。どんどん中へと入っていく耀の足は、一つの戸の前で止まる。この先には思い出したくない思い出が待っている。
 しかし、耀は淀みなく戸を開けて、部屋に入る。
 西日が当たるその部屋は黄ばんだ障子から赤い陽の光が差し込んで、赤と黒の二色で染めあげられていた。
 部屋の真ん中に黒い影がある。そこにはオウマの母が眠っていた。傍らに白い布が無造作に落とされている。耀は、オウマが母の死を認めることができず、この白い布をかけてやることができなかったのを知っている。耀は白い布を拾って、オウマの母の顔にゆっくりとかけてやった。

 ――何故だろう。

 とても悲しく痛い思い出に今直面しているのに、泣き出したいとも逃げ出したいとも思わない。母が死んでから、夜になると母の死に顔を思い出しては枕を濡らした。しかし、今の耀はその母の死に直面しているのにも関わらず、悲しみが沸き上がってこない。耀は自問するかのようにじっと白い布で覆われた女性の顔を眺め続けた。
 家から出るとひとしきり泣いて落ち着いたのか男の子供が黙ってしゃがみこんでいた。耀は男の子のところまで歩み寄って、子供と向き合うように同じようにしゃがんだ。
 子供は耀と視線を合わせまいとそっぽを向く。そのとても子供らしい様子に耀は微笑むが、この先のこの子供に待ち受けている境遇を思うと胸が痛んだ。そして、男の子の頬をそっと両手で包み込むと男の子のおでこに自分のおでこをコツっと当てた。暖かい体温がおでこを通じて伝わる。

「いいかいオウマ。これから先、辛いことがあっても決してくじけてはいけないよ。君は強い男の子だ。自分の気持ちを貫くんだよ」

 そう優しく耀が男の子に言い聞かせると、オウマと呼ばれた男の子は耀からおでこを離して、涙で腫れた目で耀を見つめ、コクっと頷いた。耀は微笑むと再び優しく男の子を抱きしめた。
 このやけに現実感を感じる夢の中で、耀は自分が何者であるのか少しわかった気がした。

 

 


 夜更け、静かに眼下に雲が流れる山頂で、蛇は何かを待っている。蛇の横顔からは何か強い決意が滲み出ているかのようだ。暗く寒い山頂に木槌をついて座ってる蛇の吐息は白く濁っている。欠け始めた満月が徐々に傾き始めてきている。
 わずかに感じられる細かな振動が山の麓から伝ってきている。

 ――やはり、今宵も来たか。

 山を締め付けてとぐろを巻く大蛇が山頂を目指してゆっくりと上がってくる。月光を浴びて白い鱗が鈍く光る大蛇、碧眼の瞳は暗く灯っている。ゆっくりゆっくりと流動的に動く大蛇はやがて山のヌシが佇む山頂に頭が到達する。しかし、その巨大さは頭が山頂まで届いても尾は麓にまだあるというほどのだった。
 大蛇は、山のヌシと視線を合わせる。じっと見つめる瞳を受けて山のヌシは先ほどの厳しい表情を緩めて、優しい眼差しで見つめる。

「耀。眠れないのかい?」

 話しかける山のヌシに大蛇は身じろぎをして反応を示す。そして、おもむろに大蛇は傾きつつある月へ視線を移す。月光を浴びる大蛇の白い鱗は徐々に己も自ら光り始める。

「耀、俺はお前の全てを変えた」

 月光を浴び続ける大蛇に対してヌシは言葉をつむぎ始める。この言葉はヌシの決意が込められている。ヌシは一つ咳き込むと強い眼差しで大蛇を見つめて言葉を続ける。

「神である力を行使し、禁忌である行為でお前を神へと変えた」

 大蛇は静かにヌシへと視線を戻し、じっと次の言葉を待っている。

「その罪は重く、許されるものではない。だがそれでも俺はお前と一緒にいたいんだ。お前に背負わせてしまったものを俺も一緒に背負おう。だから、」

 ヌシは懐かしい気持ちを抱きながら、その言葉を紡いだ。

「ずっと傍にいておくれ」

 静かに聞いていた大蛇の身体がより一層輝き始める。

 "あなたの…、あなたの本当の名前を教えてほしい"

 光を纏った大蛇は、ヌシに向かって静かに語りかけてきた。ヌシは少し驚いた顔をするが、やがて優しい表情になった。

「それがお前の、その姿になってまで欲しかったものかい?」

 大蛇は静かに答えを待っている。ヌシは少し困った顔で大蛇を見つめる。まさかヌシの名前が知りたくて大蛇となっていた、なんて話だったら洒落にならない。だが、答えてやらなければならないだろう。

「俺の名は……」

 本当は自分の名前が嫌いだった。しかし、耀が紡いでくれるならばそれは違うかもしれない。

「俺の名は伊吹(イブキ)。八つの首と一つの尾を失った蛇の王」

 月は完全に傾き、大蛇の姿は砂のように崩れて消えていく。月と反対側から赤く燃える陽が登ってくるのが見える。ヌシは崩れて消えていく大蛇の姿が解けて、ゆっくりと降りてくる耀を両手で受け止める。
 眠るように閉じていた耀の目がゆっくりと開けられていく。そして、耀はヌシがこれまで見た事のないほどの美しい笑顔でヌシを呼んだ。

「伊吹」

 ほう…、とため息をつくとともに伊吹という名の山のヌシはその笑顔に魅了され、すっかり見惚れてしまっていた。すぐに伊吹は自分が見惚れていたことに気がつくと気恥ずかしさに顔を赤くする。しかし、耀のその美しい笑顔もすぐに崩れ、耀の瞳から溢れ出す感情のこめられた涙が一筋こぼれた。

「助けて…、伊吹……」

 その一言を言うと耀は気を失うように目を閉じた。

「耀……? おい、耀! 耀!?」

 その表情に伊吹は耀の名前を何度も呼びながら肩を持って揺さぶるが、耀は目を覚まさない。耀の鼻の上に手をかざしてみる。呼吸はある。気絶しているだけのようだ。

「くっ」

 伊吹は転がっていた木槌拾い腰に差すと、耀を強く抱くと山頂から山の麓へと高く跳躍しながら下っていく。伊吹は形振り構っていられなかった。一刻も早く処置をせねば。疾風の如く駆ける伊吹の姿は、やがて山に生い茂る木々の中へと消えていった。

 

 


「そんな…ッ、オウマが…オウマが…!」

 山頂の岩陰で様子を見ていたレンは両手で口を抑えた。お遣いの後、なかなか母親に離してもらえず、ようやく夜こっそり家を抜け出して山に入った時、途中で大蛇と遭遇したときは思わず悲鳴を上げそうになるほど驚いた。大蛇の後を追って、山頂まで這うような思いをして来てみれば、大蛇の姿から耀の姿が現れたじゃないか。これにはさすがのレンもあまりの衝撃に驚きを隠せなかった。母親が耀の姿を見えなかったのも驚いたが、まさか耀が里のヌシ神と同じ蛇の化身だったとは。
 だが、そんな姿に変えられて耀は果たして幸せだろうか、レンは首を振った。そんなはずはない。きっと耀は元に戻りたいに違いないだろう。耀を知る唯一の自分がなんとかしてあげなければ…。レンは脳裏から最後の耀の涙をこぼした悲しげな顔を消し去ることなどとてもできない。
 レンは密かに胸のうちで決意すると、その場を静かに去っていった。

 

 


〜つづく〜

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