月光の明るい夜。草木も眠る夜更けに地響きが鳴り響く。
両手いっぱいに洗濯物を抱えてやってきたカヤは、縁側まで運んでくると足元に何やら黒いものが広がっているのが見えた。 「はぁ…、姉さま……」 ため息をつくとカヤは洗濯物を床に置く。そこには、柔らかくなった日差しを浴びながら小さく丸くなって眠る耀がいた。カヤが見たのは扇状に広がってしまっている耀の長い髪の毛だった。
「月には気をつけろよ」 ぼうっと月を眺めている耀の隣に蛇が腰をかける。耀は蛇が声かけたのすら反応しない。魂が抜けてしまったように、人形のように瞬き一つしない。 「満月の光は影響力がある。例え神でもな」 耀は神という言葉にぴくんと反応する。しかし痙攣に近い反応だけ見せたあとはまったく動こうとはしなかった。 蛇は、腰まで無造作に流れる耀の黒髪をすくい上げる。しなやかで柔らかい髪の毛は手を傾けると砂のように滑り落ちていく。このまま、例え抱きしめたとしても耀はきっと身動き一つしないだろう。だが、蛇はそれ以上のことを自分が出来る気がしなかった。 「……」 ひとしきり耀を眺めていた蛇は諦めたのか、立ち上がると自室に入っていった。
「大蛇か…」 風が笛のような声で蛇の眼下にある谷を走り抜いていく。その谷は何かが通ったかのように土が抉れて出来たものだった。それを眺める蛇の表情は苦悶に満ち満ちていた。 「……どうやら、思ったより真面目にやっていたようだな」 苦笑を含んだ表情で蛇は呟いた。雑草のように倒れている眼下の森の傷跡がそこを通ったものの巨大さを物語っている。 ゴオォーーーーーー……ン!! 鐘の音にも似た音が山中に鳴り響く。共に凄まじいほどの膂力で打たれた地面が巨大な力で重く揺れる。谷となっていた地は一気に崩れ落ち、打ち下ろされた地面は隆起する。揺れが収まるころには平坦とは行かないまでも谷であったそこは完全に埋まり、不自然に抉られた谷は姿を消していた。 「さて、どうしたものか…」 山を周り、不自然に削られ破壊されているところをひとしきり修復し終えた蛇は山の頂で一人座り顎をさすりながら思案する。今は何も思い浮かばない。だが、このままではいずれ怖れている状況に陥ってしまうだろう。こうやって山を幾度も修復するのにも限度がある。
耀と別れてから、レンは耀の様子が気になって仕方なかった。とても山を歩ける様子じゃなかった。どこか山の中で倒れていたりしないといいが…。耀が出て行った後、必死で山の中を探したが見つけることができなかった。レンは耀が崖の底で倒れてたりしてはないかと思うと夜も眠れない気持ちだった。 「だから、本当だって!」 片方は冷やかし半分で笑いながら聞いてる一方、必死で訴える片方の男の顔は興奮して赤い。男の様子が少し尋常でなかったので、気になった。山で何か起こっているのだろうか、レンは耀が酷い状態で戻っていったことを思い出した途端、胸騒ぎが止まらなくなった。もしかしたらオウマが関わっているかもしれない。
「なんで……、泣いているんだ…?」 子供を優しく抱く耀は耳元で尋ねる。子供から懐かしい匂いがする。 「かあさんが…しんじゃった…」 泣きじゃくる子供は嗚咽交じりにそう答える。耀はハッと子供から離れる。 「ここは…」 そこはついこの前尋ねた、自分の生まれ育った家だった。何かに気がつき耀は子供の顔を見ると、その子供は、 「この子は……オレ…?」 幼き頃のオウマがそこに泣きじゃくりながら立っていた。夕焼け、そして黒くぽっかり開いた家の入り口。この風景は見覚えがある。耀は恐る恐る家の中へと入っていく。 ――何故だろう。 とても悲しく痛い思い出に今直面しているのに、泣き出したいとも逃げ出したいとも思わない。母が死んでから、夜になると母の死に顔を思い出しては枕を濡らした。しかし、今の耀はその母の死に直面しているのにも関わらず、悲しみが沸き上がってこない。耀は自問するかのようにじっと白い布で覆われた女性の顔を眺め続けた。 「いいかいオウマ。これから先、辛いことがあっても決してくじけてはいけないよ。君は強い男の子だ。自分の気持ちを貫くんだよ」 そう優しく耀が男の子に言い聞かせると、オウマと呼ばれた男の子は耀からおでこを離して、涙で腫れた目で耀を見つめ、コクっと頷いた。耀は微笑むと再び優しく男の子を抱きしめた。
――やはり、今宵も来たか。 山を締め付けてとぐろを巻く大蛇が山頂を目指してゆっくりと上がってくる。月光を浴びて白い鱗が鈍く光る大蛇、碧眼の瞳は暗く灯っている。ゆっくりゆっくりと流動的に動く大蛇はやがて山のヌシが佇む山頂に頭が到達する。しかし、その巨大さは頭が山頂まで届いても尾は麓にまだあるというほどのだった。 「耀。眠れないのかい?」 話しかける山のヌシに大蛇は身じろぎをして反応を示す。そして、おもむろに大蛇は傾きつつある月へ視線を移す。月光を浴びる大蛇の白い鱗は徐々に己も自ら光り始める。 「耀、俺はお前の全てを変えた」 月光を浴び続ける大蛇に対してヌシは言葉をつむぎ始める。この言葉はヌシの決意が込められている。ヌシは一つ咳き込むと強い眼差しで大蛇を見つめて言葉を続ける。 「神である力を行使し、禁忌である行為でお前を神へと変えた」 大蛇は静かにヌシへと視線を戻し、じっと次の言葉を待っている。 「その罪は重く、許されるものではない。だがそれでも俺はお前と一緒にいたいんだ。お前に背負わせてしまったものを俺も一緒に背負おう。だから、」 ヌシは懐かしい気持ちを抱きながら、その言葉を紡いだ。 「ずっと傍にいておくれ」 静かに聞いていた大蛇の身体がより一層輝き始める。 "あなたの…、あなたの本当の名前を教えてほしい" 光を纏った大蛇は、ヌシに向かって静かに語りかけてきた。ヌシは少し驚いた顔をするが、やがて優しい表情になった。 「それがお前の、その姿になってまで欲しかったものかい?」 大蛇は静かに答えを待っている。ヌシは少し困った顔で大蛇を見つめる。まさかヌシの名前が知りたくて大蛇となっていた、なんて話だったら洒落にならない。だが、答えてやらなければならないだろう。 「俺の名は……」 本当は自分の名前が嫌いだった。しかし、耀が紡いでくれるならばそれは違うかもしれない。 「俺の名は伊吹(イブキ)。八つの首と一つの尾を失った蛇の王」 月は完全に傾き、大蛇の姿は砂のように崩れて消えていく。月と反対側から赤く燃える陽が登ってくるのが見える。ヌシは崩れて消えていく大蛇の姿が解けて、ゆっくりと降りてくる耀を両手で受け止める。 「伊吹」 ほう…、とため息をつくとともに伊吹という名の山のヌシはその笑顔に魅了され、すっかり見惚れてしまっていた。すぐに伊吹は自分が見惚れていたことに気がつくと気恥ずかしさに顔を赤くする。しかし、耀のその美しい笑顔もすぐに崩れ、耀の瞳から溢れ出す感情のこめられた涙が一筋こぼれた。 「助けて…、伊吹……」 その一言を言うと耀は気を失うように目を閉じた。 「耀……? おい、耀! 耀!?」 その表情に伊吹は耀の名前を何度も呼びながら肩を持って揺さぶるが、耀は目を覚まさない。耀の鼻の上に手をかざしてみる。呼吸はある。気絶しているだけのようだ。 「くっ」 伊吹は転がっていた木槌拾い腰に差すと、耀を強く抱くと山頂から山の麓へと高く跳躍しながら下っていく。伊吹は形振り構っていられなかった。一刻も早く処置をせねば。疾風の如く駆ける伊吹の姿は、やがて山に生い茂る木々の中へと消えていった。
山頂の岩陰で様子を見ていたレンは両手で口を抑えた。お遣いの後、なかなか母親に離してもらえず、ようやく夜こっそり家を抜け出して山に入った時、途中で大蛇と遭遇したときは思わず悲鳴を上げそうになるほど驚いた。大蛇の後を追って、山頂まで這うような思いをして来てみれば、大蛇の姿から耀の姿が現れたじゃないか。これにはさすがのレンもあまりの衝撃に驚きを隠せなかった。母親が耀の姿を見えなかったのも驚いたが、まさか耀が里のヌシ神と同じ蛇の化身だったとは。
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