「綾羆さま」 夕刻、耀は一人山の中での探し物を終えると社に帰ってきた。社ではカヤとサクが二人がかりで床に寝かされている満身創痍の綾羆の看病をしている。 「杖と腕、谷底まで飛ばされてたよ。でも、右腕は…」 少し顔色が青白い耀は腕に抱えていた布で包んである物を解く。赤く汚れた布の中からはすっかり白骨化してしまった腕が出てきた。身体から切り離された腕は精を断たれたために、一気に腐敗が進んでしまったのだ。まだ筋肉の腐敗が続いていたこれを見つけた時、耀は思わずえづいてその場で吐いてしまった。しかし、その残っていたものも社に戻るまでにすっかり腐り落ちてしまっていた。 「そうか、これでは接合は無理だな…」 横になっている綾羆は脂汗を流しながら痛みに耐えている。身体中は処置後の布で巻かれ、傷口より吹き出た膿で布のあちこちが汚れている。耀はその痛々しい姿に胸が締め付けられる思いだった。綾羆のすぐ横には、耀たちを襲ったあの鬼も横たわっている。これも綾羆の指示で社まで運び、特に外傷もないのでサクの判断により綾羆の特殊な術で編み上げられた縄で拘束し寝かせてある。サクが来る直前まで綾羆がなにやら術をかけていたのが効果を表しているのか、真っ白だった髪の毛は色が戻ってきているのか濃い茶色になり、生気のなかった肌にも幾らか肌の色が出てきている。 「綾羆さま…、どうしてこいつも介抱しないといけなかったんだ?」 綾羆をこのような目になったのはこの鬼のせいだ。耀は少なからず鬼に対して怒りを感じていた。しかし、綾羆は鬼を助けようとする。先ほども瀕死の身体で鬼になにやら術をかけていた。その行動に対して耀は不信感を抱いていた。 「耀…、鬼を憎んではいけない。鬼は望んでなれるものではない…。修羅の業に焼かれた者の成れの果て、それが鬼だ…」 そやつもまた哀れな者なのだ。憎んではいけない。そう語る綾羆の目には憎しみや怒りは見受けられない。むしろ、その目に宿るものは悲しみと憐れみだ。しかし、それを認めることができず、耀は厳しい表情で鬼を睨む。 「こんな女…、山に捨ててくればよかったんだ…!」 怒りが収まらない耀は吐き捨てるように言葉を強める。 「俺は女じゃねぇよ」 稟とした少年のような声に、俯いて怒りに震えていた耀は驚いたように鬼の顔を見る。先ほどまで弱々しく息をしていた鬼の目がはっきり開かれている。強い意思の色が見られる赤い瞳が、耀の碧眼を見つめている。 「おお、目覚めたか…」 サクに支えられて綾羆は上半身だけ身体を起こす。綾羆は安堵の顔で鬼を見る。 「気分はどうだ?」 先ほどの瀕死のような姿が嘘だったようにハキハキと鬼は滑らかに答えている。生気のある活きのいい返事に綾羆は微笑んで頷く。 「どうやら、大丈夫のようだな。カヤよ、そやつの拘束を解いてやりなさい」 耀は綾羆を思い留まらせようと口を開くが、それを綾羆は大丈夫と制する。カヤが綾羆に指示された通りに鬼の拘束を解くと、鬼は正座に座り直し、深々と頭を下げた。 「爺さん、申し訳ないことをしたな。この通りだ、許してほしい」 鬼は自分の所業が許せないとばかりに顔をなかなか上げない。あの狂気に満ち満ちた剣舞を放っていた姿とは一致しないほどの落ち着きように耀は驚きを隠せず、動揺の色が顔に浮かべていた。 「お前、名は何と申すのだ?」 今、里や邑(くに)を治めているのは侍と呼ばれている刀を操る者たちだ。武力による統治で侍たちは邑を治めている。そして侍たちは戦で領土を広げることによって発展を遂げている。今もどこかでは侍達による国取りが行われ、戦で血を流す者たちがいるのだ。 「カヤよ。湯を沸かすのだ。そやつに湯浴みをさせてやってくれ」 カヤは二つ返事ですぐに立ち上がる。主神に仕える時のカヤはとても大人しく、そして言われた通りに行動する。サクに色々言われていたが、やはりカヤも主神に仕える巫女、分を弁えているのだ。 「俺も手伝おう」 まだ正成と名乗る鬼のことを信じきれない耀はカヤの身を案じて、自らも手伝いを買って出る。すると先ほどまで慎ましい素振りだったカヤの顔が明らかに嬉しそうな表情になる。それに気がついたサクは手当てをしながらもカヤにきつい視線で浮かれているカヤに釘を刺す。しかし、耀が味方なら百人力と言わんばかりにサクを無視して耀の袖を引っ張る。 「姉さまっ、いきましょっ」 逃げるように社を出て行く二人を見送るとサクはため息をつく。サクも最近はカヤの強情に少し負けそうになっている。自分は間違ったこと言ってないはずなのに…。サクもなかなか折れないが、カヤもまた折れないのでこの件は膠着状態に入っている。苛立って爪を噛んでいるサクに綾羆は苦笑いをする。 「サクよ。少しは折れてやりなさい」 サクも意地悪く責めているわけではないのだ。彼女もまた可愛い妹としてカヤのことを案じているからこそ、強く言っているのだ。しかし、その思いもまた幼いカヤにはなかなか伝わりにくく、そしてサクも強情で素直になれないせいで、嫌われ者に思われがちになってしまうのだ。 「カヤもわかっていないわけではないのだよ。ただ、幼い子供に孤独を負わせるのは酷というものだ…」 サクとはまた違う考えだが、綾羆もまたカヤのことを案じている身でもある。しかし、サクには綾羆は甘すぎると思うところがあるためか、こちらもこちらで膠着している。横で話をそれとなく聞いていた正成だが無関心と言わんばかりに大きなあくびをした。
大釜で沸かしている湯を裸になった正成に無遠慮にかける耀。暖めた熱い湯を冷ますことなくかけるものだから、熱くて仕方がない。正成は今にも飛び上がりそうになるのを必死にこらえる。耀の手つきもいつになくぶっきらぼうだ。 「ね、姉さま、もっと丁寧にやりましょうよ…」 いつに無く不機嫌な耀にカヤはどうしたらよいものかうろたえている。正成は扱いの悪さにむすっとした表情で耀たちに背を向け、身体を手ぬぐいでこれまた荒い手つきでゴシゴシと無言で擦っている。身体にこびり付いた血糊を拭うたびに手ぬぐいが赤く染まっていく。地面に流れる湯も少し赤く染まっている。これが自身の血ではなく、全て他者によるものだと思うと耀は正成に優しくしてやることなんてできなかった。 「正成さまって、肌綺麗ですねぇ」 険悪な雰囲気に耐え切れないカヤは正成に話しかける。しかし、肌のことを言われて少し不機嫌な様子で正成は振り返る。 「肌ねぇ…、そんなとこ褒められてもうれしかねぇな」 男? 耀とカヤは疑問の目で正成を見る。正成のどこをどう見たら男なのだろうか。名前や口調を取れば確かに男っぽいとは言えるが、その容姿はどこからどう見ても女そのもの。強いて言えば声も少年っぽい感じがする。しかし、その柔らかい肌と膨らんだ胸、強調されたメリハリのある身体はどう見ても女性だ。 「ひゃあっ!!」 いきなりのことでカヤは例によって顔を両手で覆う。耀は反応できずもろに全裸姿を見てしまう。 「…あ、男の子がついてる」 さらけ出された正成の股間をしばらく呆けたように見ていた耀が零した言葉に正成が憤慨する。正成の股間に小さいが確かに男性の象徴が息づいていた。元々男としての記憶がある耀はその存在自体にはカヤほど驚かなかったが、女性の身体についているのでその意外さに驚いている様子だ。 「おー…? どうなってんだ、これ」 興味深々といった感じで堂々としゃがみこんで覗き込む耀、それに対して正成は顔を赤くしてしまう。 「お、俺は生まれた時から両方ついてんだよ…」 変なところをつつく耀の指を必死で払う正成。 「姉さまって…変ってる…」 先ほどの険しい表情はどこかへ行ったのか、変なところまで好奇心旺盛な耀の姿に呆れたような表情でカヤは言葉を零す。古代樹に囲まれた普段は静かな森の中で、いつになく騒がしい声が響いていた。
――俺は過去を取り戻し、決着をつけるつもりだ。 綾羆は傷の痛みに耐えつつ横たわりながら、耀がやってきた夜に酒を酌み交わした伊吹の言葉を思い出していた。伊吹とはほんの五年ぶりの再会であったが、耀を手に入れた伊吹の身体から久しぶりに強い意思が迸っているのを綾羆は感じた。 「兄者、これが私の息子の伊吹だ」 父の手にひかれて連れてこられ、初めて綾羆の社に来た時の伊吹はまだ十を数えるほどの幼子だった。 「……」 綾羆がにこやかに話しかけても返事をすることなく、伊吹はそれどころか他所のほうへ視線を向け、少しも綾羆を見ようとしなかった。 「伊吹、綾羆兄に挨拶せんか」 「お前が、お師匠様の言ってた伊吹か?」 緒乃は神族の同士の争いによって独りとなった神の子であった。そしてその争いで残った唯一のヒトの化身だった。緒乃もまた過酷な環境で育ってきた子供だが、それによって性格は歪むことはなく、明るく活発で尚且つ有り余る元気を発散することに躍起な強靭な少年に育っていた。あまりにも有り余っているためによく無茶をすることが多く、可愛いらしく思いながらも綾羆はその限度を知らない行動に頭を悩ませていた。伊吹よりも前に緒乃を預かっていた綾羆だが、十一と歳が近いため気が合えば二人にとって良い環境になるのではないだろうか、と伊吹を預かることにしたのだ。これが功を奏し、伊吹は少しづつだが表情らしいものを現し始め、歳が一つ超えるころには二人は常に行動を共にするほどになった。活発な緒乃が仕向けるのだろうか、緒乃一人を預かっていた頃よりも、二人はよく遊びよく学び、よく無茶をするようになった。
仰向けになって社の天井を眺めていた綾羆の顔をサクが心配そうに覗き込む。 「昔を…、思い出していたのだよ」 綾羆が礼を告げるとサクはハイと少女らしい笑顔で返事をする。その笑顔に綾羆は過去に囚われ沈鬱だった気持ちが浮上するのを感じた。 ――耀は、伊吹の支えだ。なんとしてでも修行をある程度のところまで持っていかねば。 伊吹が過去を取り戻すためには耀の存在は不可欠。伊吹のためにも耀には頑張ってもらなければいけないだろう。冬に入ってしまう前にそこまでいくのは難しい現状だが綾羆はたとえ傷が癒えずとも、修行を続行することを静かに胸のうちで決めた。
「……今の俺にできるのか。これを受け入れることが」 伊吹は白い息と共にためらいが篭められた言葉を零す。その石棺には収められていたのは、誰かの朽ち果てた亡骸ではない。そこには胴体から切り離されてもなお静かに脈動を続け息づく大蛇の七本の首と一本の尾だった。
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